《速い写実》駒井哲郎 久保卓治 2020年
駒井教授との最初の出会い
多摩美術大学絵画科に入学して三年目の春、版画課程を専攻した私は、新入生歓迎会がある日、少し遅れて上野毛校舎のキャンパスに入り、会場はどこだろうかと探していた。図書館の入り口左にあった検索室に珍しく人が大勢いて、誰か知らない叔父さんが、生徒達の前で淡いブルーの一升瓶を手で巧みに操り、大学のキャンパスに似合わない踊りを生徒の歌う大きな声に合わせて踊っていた。しばらく見ているとその踊りはすごく気持ちが込められていて、熟練していて上手い。私は前にいた松井幸四郎先輩に「あの人誰と?」聞いたら「僕達の駒井先生だよ!」と笑顔で言われて驚いた。それが駒井先生との初めての出会いだった。なんでも先生は歓迎会をとても楽しみに早めに来校なさって、昼間からあっという間に一升をやってしまい、一番最初に出来上がっちゃったそうだ。初めて見る駒井先生に私はなんて言おうか、その踊りの真剣さや潔さに近親感のようなものを、驚きと共に感じたの今でも鮮明に覚えている。
1973年9月、新館地下の銅版画教室で授業が始まり、担当の先生は(以後先生省略)毎週水曜午後1時過ぎ、いつもダークブルーのスーツにネクタイを締めて、実技教室に似つかわないお姿で来室なされた。授業では先生は生徒それぞれの描画机の後ろに立たれて、「どんな調子ですか?」などと聞かれ、制作している作品の途中の刷りを見てくださった。具体的にどうしたら良くなるとか、こうした方が良いといった示唆はなく、あくまでも生徒達の自主性や感性を尊重して、制作の方向性を見出しながら指導してくださった。
先生は時折学生達の制作した銅版を刷るデモンストレーションをなさった。版を拭く布、寒冷紗をくるくる丸めて版に詰めて平面に残ったインクを拭き取っていくのだが、マジシャンのように大きく腕を上げて手を開いて見せると全く汚れていなくて、皆んなで驚きの声をあげたものだった。誰が真似しても先生のようにはいかなかった。
その頃私達生徒は主にエッチング技法で大きなサイズの作品を制作していたが、腐蝕はエッチング技法で最も重要な制作過程だから、なにがあっても版から絶対離れるな、ずっと版を見て線に発生する白い泡を取るようにきつく生徒達を指示された。
また完成した版をエッチング・プレス機で刷る時は、版画紙を前日からしっかり湿して弾力性を持たせて、版がローラーを通過する時、音をさせないような出来るだけ軽い圧力で印刷をするようになどと指導された。
夕方4時に授業が終わると、助手達や生徒達と一緒に出かけ、自由が丘あたりで一杯飲るのが先生のなによりの楽しみだった。フランス帰りの先生は巴里の生活に習って、スーツを着て夜遊びに行く習慣を身につけていらしゃるのを、私達はしばらく経って了解した。四年生の頃だったか、自由ヶ丘駅近くのお店で一杯飲りながら、巴里留学時代の銅版画制作のエピソードや銅版画家のことなどの話をお聞きしたのが懐かしい。先生のお話はセーヌの河畔にシャンソンが流れているかのように、心地よく心に響き、私は西洋への憧れをますます膨らませていった。
その頃先輩達の間でエングレーヴィングという手法のことが話題になっていて、なんでも凹版画の技法の中でも最も歴史があり、最も描画が難しく、最も時間がかかり、最も鮮明で繊細な線が表現出来るそうで、何人かの先輩はすでに作品を制作していた。渡辺健先輩はザリガニをシンプルな線で表現していて、その新鮮で精密な表現に魅せられてしまった。
私はそれまでやっていたエッチング技法の酸で腐蝕する表現に満足出来ず、是非その手法を習ってみたいと思っていた。それを実現するまで、まずは駒井のそれまでの銅版画の制作体験を遡って紐解かなければならない。これまでに数多くの駒井哲郎論が執筆されているが、殆どの論文が戦後日本人初めての国際的銅版画家として駒井の業績を讃える内容が多い。私は銅版画制作者、エングレーヴァーの視点で、親族や友人から聞いた実話を基にして、芸術家としての生身の駒井の原像に迫ってみたい。実際に受けた授業や、先生に紹介してもらって影響を受けたアーティストや、作品の話を交えながらこの考察を始めてみよう。
この考察には個人の身体のことや家庭のプライベートな事実が含まれているが、これらを公表することについては駒井家、上野山家、のご遺族の了承を得ている。今回初めて公表する事実もあるが、これまでの駒井の芸術的業績を覆すものでも否定するものでもない。
画歴
1920(大正9)年、駒井哲郎は中央区日本橋室町に九人兄妹の六男として生まれる。1933(昭和8)年、慶応義塾幼稚舎卒業、普通部に進学、普通部の教室にエッチング・プレス機があり、憧れていた図工教師、仙波均平先生から指導を受ける。駒井夫人、美子さんからお聞きした話では、仙波先生が教室で銅版画を刷っているのを姿を見て強い憧れを抱いて、「仙波先生のように銅版画を刷ってみたい。」と夫人によく話されていたとお聞きしている。
中等部に入った1935(昭和10年)、駒井は翌年西田武雄が主催する麹町半蔵門の日本エッチング研究所に通いデッサン、ドライポイントやエッチングを習得する。わずか十五歳で銅版画を始めたのだが、青年期に経験した制作体験は鮮烈で大きな衝撃を受けただろう。私も大阪市立阪南中学二年生の同じ歳、美術の授業で本格的な銅版画を制作して、精密で繊細な表現に魅せられた。
駒井はまた研究所にあった欧州の画家、銅版画家のオリジナル銅版画を見たのも貴重な体験であった。後年オディロン・ルドンの作品を見て自分は銅版画家になろうと思ったと述べている。
1939(昭和14)年東京美術学校油画科本科に入学、小林萬吾教室で油絵を制作する。
1941(昭和16)年には美術展に《河岸》を出品して初入選する。
1943(昭和18)年東京外国語学校フランス語専門科卒業後、松田平田設計事務所に就職して平田重雄氏指導の元で建築設計を学ぶ。同年日本版画奉公会が結成されて、会員になる。
駒井の軍隊体験
1941(昭和16)年に勃発した太平洋戦争の暗い影は24歳の駒井も飲み込み、1944(昭和19)年陸軍に応召し、川崎市溝の口の部隊に入営する。この軍隊での駒井の過酷な体験を銅版画家の深澤幸雄先生からお聞きしたので、その内容を本邦初公開してみよう。私は多摩美術大学油絵科版画教室で1981年から四年間深澤幸雄教授の助手を務めたが、ある日研究室で深澤先生と二人きりになった折、駒井と初めて会った時の話をしてくださった。日本版画協会の懇親会で二人が隣合わせに座った時、駒井は深澤先生に「軍隊では酷い目に遭いました、教官に顔をこっ酷く殴られて歯がほとんど折れちゃいましたよ。」と話されたそうだ。
当時軍事訓練では暴力は禁止されていたがそれは表向きだけで、全国いたるところの軍隊で暴力が特に理由もなく頻繁に振るわれていた。駒井は背が高くてハンサムで高学歴という理由だけで、顔をしつこく殴られ続けたのである。その教官の軍事訓練という名を借りた軽薄な考えと低次元の行為を思うと、腹の底から怒りが込み上げてくるが、その思想は当時の軍国主義に支えられていて、誰も逆らうことは出来なかった。もし駒井が入隊をあと一年少し遅くしたら、終戦を迎えたのでこんな悲劇は起こらなかったのに。歯の損失はその後の駒井の人生に長く大きな影響を与えることになる。偶然私の父は駒井と同じ歳だったが、南方戦線で生死を分ける過酷な戦争体験をして帰還している。
1945(昭和20)年脚気のため除隊、その後アメリカ軍の空襲により日本橋の自宅が焼け、これまで制作した油絵や銅版画の大部分を焼失した。駒井と家族は軽井沢に疎開、八月敗戦を知る。駒井は上京して再び平田松田設計事務所で仕事を手伝う。
1947(昭和22)年世田谷区新町に新居が完成、母や兄と同居する。
1949(昭和24)年新居の庭に小さなアトリエを新設する。最初のエッチング・プレス機を使って銅版画を刷ろうとしいるモノクロ写真が残っているが、やっと平和になって絵の制作に専念して、未知の世界に挑戦するかのような芸術家の鋭い意思が感じられる。その頃戦後すぐの日本では銅版画の材料は殆ど購入出来ず、インクは黒顔料と亜麻仁油を手に入れて焼き、自分で練って印刷していた。版が完成しても粗末な紙や画材しかなく、少部しか刷れなかった。駒井作品は現在でも飛び抜けるほど高い価格で売買されているが、初期作品はごく僅かな部数しか刷っていないのが主な理由である。銅版があるので刷り増しをしてアーティストのサインを入れることも可能だったが、それを実現する前に駒井の生涯が突如終わってしまったのだ。
初期作品、受賞
1951(昭和26)年、サンパウロ ビエンナーレに 《束の間の幻影 》を出品、在聖日本人賞を受賞して、日本人作家による戦後初の国際展での受賞となる。
1952(昭和26)年、後に妻となる吉川美子と知り合う。ルガノ白と黒国際版画ビエンナーレに《束の間の幻影》を出品、木版画家の棟方志功と共に最優秀賞を受賞、国際作家としての地位を確立する。
1953(昭和28)年、初の個展を東京、銀座の資生堂ギャラリーで開催し、 《ソーレ・ソムナムビュール》(夢遊病者のフーガ)の連作を発表する。この個展は日本で初めてエングレーヴィング手法で制作された作品を展示した画期的な展覧会であったが、私はこの個展のことを美子夫人からお聞きした。「作品は全く売れなくて駒井も私もがっかりしたわ、瀧口修造さんが作品を評価してくださったのがせめてもの救いだった。」戦後八年は経っているが、 東京と言えども人々が未だ銅版画に接する機会は少なく、ましてやエングレーヴィングなど知る由もなかった。また駒井が制作した単純な線だけで表現された抽象、心象作品は、版画に造詣が深い人にしか理解してもらえなかっただろう。日本人初の銅版画家、先駆者としての駒井の苦悩、葛藤を感じる。またこの個展の結果が駒井の気持ちをさらにフランス留学へと導いたと想像される。本格的なエングレーヴィング作品を制作してみたかったのだ。そのために、1942(昭和17)年から東京外国語学校でフランス語を習得し周到に準備していた。
巴里
1954(昭和29)年、フランス政府私費留学試験に合格。吉川美子と婚
約した駒井は横浜港を出港、一ヶ月後マルセイユ経由で巴里に到着し、既に渡仏していた洋画家、野見山暁治氏、木版画家、北岡文雄氏と会う。翌日早速、創作版画家の恩地幸四郎氏からもらった紹介状を持って、1918(大正7)年から巴里に住む銅版画を制作している長谷川潔先生を訪問して、銅版画を習得したい旨を伝える。長谷川先生は駒井に「銅版画の始まりは、エングレーヴィングだからまずはそれから始めなさい」と言われて、国立美術学校のロベール・カミ教授を紹介され入学する。駒井はビュラン専攻の教室でその手法に本格的に取り組み制作を開始する。
またパリ・オランジェリー美術館のエドモンド ・ロスチャイルド ・コレクション展などを鑑賞して、西洋の芸術作品に圧倒されながらビュランの制作を続ける。
行きと帰りも駒井と同じ船に乗ったフランス文学者の野村二郎さんに駒井の展覧会レセプションでお会いしてお話しを伺ったことがあったが、よく駒井と行動していた野村さんは、駒井さん一緒に帰ろうよと言って、まだ巴里に未練がある駒井を誘い、長谷川先生の助言もあって帰って来たとお聞きした。
1955(昭和30)年日本人画家展のために西ドイツのレバークーゼンを訪れしばらく滞在したのを加えて、駒井が欧州に滞在したのは一年八ヶ月で、少し短かったのではなかろうか。当時の留学制度では滞在期間が二年に制限されていたのだろうか。フランス語を数年前から勉強して行ったのだから日常会話もかなり上達していただろう。せめてあと一年滞在したら、欧州の圧倒的な数と量の芸術概念も心の中でもっと消化されていて、制作の成果も滞在中にあったのではないだろうか。作品を購入して援助する現地の人も現れてきただろう。私は英國に二年七ヶ月滞在したが、西洋芸術を心の中である程度消化して、本格的に自分の制作が出来たのは二年目からだった。兎に角よく博物館に通い、部屋中の全ての展示品のメモを取りながら見たのが功を奏した。展示品をただ眺めているのだけでなく、その作品のバックグラウンドを知ろうとすると、自然に心の中でその作品群が少しずつ消化が出来た。また幸運なことにその頃英國人プリント・コレクター、ジェイムズ ・エル ・ヒルデブランドと出会い、気に入った作品を購入してくださった。彼と出逢わなかったら二年も滞在出来なかっただろう。
1956年12月、横浜港に着いた駒井を出迎えに行った美子さんは「貴方よく帰って来たわね」と言ったエピソードを彼女から幾度となく聞かされた。フィアンセが無事帰国したのが余程嬉しかったのだろう。翌年10月二人はめでたく結婚して杉並区西荻窪に新居を構え、駒井は桜新町に通いアトリエで制作を始める。
その後滝口修造が主催する〈実験工房〉で詩人や評論家や版画家と親交をの持ち、数多く多くの詩画集を出版して、銅版画家の第一人者としての地位を獲得する。1962(昭和37)年多摩美術大学非常勤講師に就任して、実技指導を行う。以上が駒井哲郎の前期の経歴と画歴である。
ビュラン エングレーヴィング
ではそろそろもう一度上野毛キャンパスの銅版画教室に戻って授業を受けてみよう。さてその憧れのエングレーヴィング手法のことだが、駒井は新三年生を前にして「銅版画の始まりはエングレーヴィングだからまずそれから始めなさい。」 ご自分が巴里で長谷川先生に言われたのと同じことを我々に宣言されたのである。かくして先生に未知の手法を薦められた新入生は、その手法を我が物にしようと、教室に備えられていたビュランと呼ばれる線を彫る道具で銅板と格闘することになったが、直ぐ線を彫れるほど簡単にはいかなかった。そこで私は自分専用の道具が欲しくなり神田、神保町の老舗画材店、文房堂のカタログの中から、アメリカ製の直型ビュランを大中小三本と、 木口木版用の各種ビュラン十本、バニシャー付きのスクレイパーを取り寄せた。それから研磨用の粗めと中めの油砥石を金物屋で買ってきて、先ずはビュランの研磨を習得することから始めた。すでにエングレーヴィングの作品を制作していた吉田勝彦先輩が研磨法を詳しく教えてくださった。
新しく買ってきたビュランはまず刃の下の二面全てを同じ面積に平らに研磨しなければならない。そして刃先の小さな面を横から見ておよそ45度に研磨して三面がぴったり合うようにする。その小さな面の角度を刃の長さに合わせて45度より多く研磨するか、少なくするか判断するのがとても難しく、微妙な角度の調整がまたそれ以上に難しい。毎日五、六時間、一ヶ月も研磨と彫りを続けていると、どうにか上手く調整出来るようになった。
机に向かって三十度くらい斜めに座り、ビュランの刀を親指と人差し指で持ち、その他の指は木の柄を包み込むようにして刀の峰を真上にする。ビュランの刃の先を銅板に45度で軽く差し入れそのままゆっくり下げていくと、銅板からおよそ7度から3度くらいの、刃先が銅版に触らないギリギリの角度に傾いたところで、刃先が自然にコトンと進み始める。そうしたら腕を前進させて、上半身をついていかせると、長く均一な線が彫れるようになった。この線が彫れ始めるポイントさえ掴めれば、特に後方から強い力を加えないでも、ビュランは前進して鮮明な線を彫って行く。ビュランがこれから線が彫れますよと親切にも教えてくれるのだ。それを無視してビュランを下げきる前に線を彫ろうとすると、初心者がよくやるように刀先が銅板に突っ込み前進出来なくなる。
線を彫り終えたらまたビュランを再度45度に立て刃を抜くと綺麗な形で線が彫り終える。それをしないと彫り終わった線の削った跡のささくれが版に残り、版を持つ手を傷つけてしまう。忘れた場合はスクレーパーを用いて線を彫った方向から削り取る。
45度に先端が研磨されたビュランは版から7度から3度上がったところで線が彫れ、これを逃げ角と呼ぶが、刃先からは52度から48度の角度の範囲内で線が彫れることになる。ビュランの刃の長さによって角度は微妙に変化するが、およそ4度くらいゆとりのある角度で線を彫っているのである。
木を金属で加工することは我々日本人にとって馴染み深いが、金属を金属で加工するのは馴染みが薄い。ではどういう仕組みで加工出来るか簡単に説明してみよう。
金属の硬度は硬度測定器で測れるが、銅は硬度(HBW)80から150、ビュランのスチール鋼は高度(HBW)500から600、この硬度の違いによって、正確に研摩されたビュランでは鮮明な線が彫れる。銅とビュランのスチール綱は最高に相性が良く、しかも銅は展延性に富んでいて修正がしやすく、エングレーヴィングには最適の金属版材である。
私は一本ずつ慎重に一ミリの間隔で平行線を彫り、またその上に平行線を彫り重ねた。これをクロス ・ハッチングと呼び、エングレーヴィングの最も華麗で美しい表現法だ。平行線の間隔を拡げると淡いトーン、狭めると暗いトーンが表現出来るのだ。私はビュランの持つ手の力の入れ具合によって、平行線を最初は細くだんだん広く、また細くなっていく線を彫る練習をした。
2000年アメリカ人の新しい友人、ケビン・ビンソンに彫る実演をして見せた。「ウォ、このままでは線はよく見えないが、拡大鏡で見ると1ミリに10本の線が見える。とても美しい!」と驚きの声をあげた。
次に曲線を彫る練習を試みよう。ビュランを持った手を机に固定して、銅板を片方の手でゆ動かし彫っていく。直線を彫る時よりもビュランの刃と銅版の接地面が多くなるので、ゆっくり彫り進める。両端が細くて中心が太い曲線、曲線を重ねて彫るクロス ・ハッチングは人体のボリュームや質感を表現に 用いられる典型的な描画法だ。
短い線や点を彫る場合はすでに彫った箇所が見えるように、後進して彫っていく。上手く彫れると次第に面白くなって、時間を忘れて練習を繰り返した。三ヶ月ばかり研磨と彫りを繰り返していると、自分が彫りたい所に線が彫れ、その線がやがて絵となって表現出来るようになり、1976年にはコラージュ風の習作、三点が完成した。
エングレーヴィングは一度線を彫ったら彫り直すことは出来ない。修正は出来るが、熟練したレポサージュという技術をもっても時間がかかり容易ではない。従って簡単には彫り直せないというある一種の緊張感を持ちながら、眼をビュランの刀先に集て、ゆっくりだが正確に線を彫って、絵を描くことに限りない魅力を感じる。一点に集中して時間を忘れて線を彫ることが次第に快感になり、時間が自己の内部でぴったり止まってしまう。
彫りが完成した版は四辺を金ヤスリで40度くらいに削り落とし、更にスクレーパーとバニッシャーを使ってヤスリ目をとって、印刷する時に版画紙を圧力から保護する。これをフランス語でファセッテと呼び、凹版画の作品だけに残る印刷の痕跡で英語でプレート マークと呼ばれる。
硬度の違う金属で鋭く彫り刻まれた線の両側には、バーと呼ばれるささくれが残っているのでよく研磨されたスクレーパーで取り去り、より鮮明な印刷する準備をする。暗く印刷したい所は意識的にバーを残して、滲んだような印刷効果を演出する。このバーは百枚以上印刷して圧力をかけても、しっかり線の両側に残っている。従ってバーの取り具合によって、印刷される線の濃淡のコントロールをすることも可能である。またバニッシャーを線に当て上から力を加えて、線の勢いを弱くして、明るくすることも出来る。
刷りの工程を簡単に説明してみよう。版にインクを盛りローラーで線に詰める。寒冷紗で平な所のインクを拭き、水で湿して弾力性を持たせた版画紙を当て、ブランケットを被せて印刷する。ゆっくり版画紙を版から剥がしていくと、印刷され漆黒の濡れたインクが鮮明な線となって紙面に立ち上がって表れ、言いようのない喜びと、充実感が身体一杯に溢れて出て来るのである。
1980年代に文房堂で入手した菱形のスイス製ビュランは幅が狭い線が彫れ、刃を長い木の柄から取り外しが出来、研磨が容易になった。練習を積ねていくと1ミリに12本の平行線が裸眼で彫れるようになった。人間の手で可能な最も精密な表現が出来、しかも数百枚以上も同じ質の線が印刷出来るのだから驚きだ。さすが欧州で五百八十余年以上培われてきた伝統ある手法である。凹版画が発生しなかった東洋には存在しない繊細な表現法で、私は二十歳代にこの優雅な西洋手法に出会えたことに感謝した。線を彫るのに没頭してひと休みして銅版をふと見ると、自分が彫ったものとは思えないようなエレガントな表現が版上に既に成形されていて驚くことがしばしばあった。この手法の伝統美に支えられれて、私はエングレーヴィングの深淵な世界にますます誘い込まれていった。
1976年ある秋の夜
その頃先生と学生の私との忘れられないエピソードがあるので、初秋のある夜の出来事を本邦初公開してみよう。1976年毎年恒例の芸術祭が開催され、私はキャンパスに建てられたスポーツ サークルの模擬店で働いていた。お客さんも引けた九時も過ぎた頃だったか、仲間が「久保君にお客さんだよ。」と言う。入り口に行ったらソフト帽をかぶった背の高い男性がいて、帽子を脱いだら駒井先生で、「やあ!」とおっしゃる。私は先生よくいらしゃいましたと案内して席に座っていただき、二次会に参加していた女子生徒達に替わる替わる先生のお隣に座ってお酌して、どんどん日本酒を呑んでいただきました。尊敬する憧れの先生と気さくにお話し出来るのだから、皆んなこれ以上の幸せはない。賑やかな宴会は二時間近く続いたか、ふと腕時計を見るともう十二時近く、私は少し酔ってフラフラなさっている先生を連れて正門に行き、前の道路、環八でタクシーを拾って「桜新町へ!」と告げた。細い裏道を十分も走って二股に来た所で先生は車を停めさせて私にこうおっしゃた。「家の前の道は狭くて車が入れないので、タクシー代を払ってあげるから、君はこの車でこのまま上野毛に帰りなさい。」先生に言われたようにして同じタクシーで模擬店に帰って私は、もうとっくに終電も終わっているので、仕方なく長椅子を並べて独りで一晩明かすことにした。
早朝突然大きな怒鳴り声が二階の研究室から聞こえ目が覚めた。「誰だ昨夜駒井先生を送って行ったのは?」「私がお送りしました。」「馬鹿野郎!奥さんに引き渡さないと送ったことにならないのだ!」そう言われて酔いが覚めた私は、どうしてそんなことになったしまったのか直ぐに訳が分からなかったが、後で当時副手だった渡辺達正さんから説明を受けて、やっとその夜の駒井先生の行動の全貌を知ることになった。私を乗せたタクシーを降りた先生は、その狭い道をソフト帽を深く被って自宅の前を通過し、その先の国道246に出てタクシーを拾い、深夜の渋谷の街にお出ましになったそうだ。私に渋谷に行くと言われなかったのは、裏切られたような気になったが、先生が息子のような歳の私を騙した訳ではなく、私が先生を奥様に引き渡さなかったのが原因で渋谷に行かれてたのだから私の落度だ。かくして真夜中の渋谷で自由な身になられた先生は、行きつけの店を二、三軒ハシゴしたのだろう、しかし模擬店で呑んだ日本酒がボディー ブローのようにゆっくり効いてきて酔い潰れ、夜明け前渋谷警察署に保護されてしまった。完全に陶酔するまで呑まなければ満足しない先生だったが、交通事故にもあわずにご無事で保護され、翌日になったがご自宅に帰れたのは幸運で、私は模擬店のテントの陰で密かに胸を撫でおろした。
飲酒習慣
この出来事を例にとって駒井の飲酒習慣を考えてみよう。駒井をそうさせたのは二十五歳の時軍隊で受けた暴行がひとつの原因であるのは明確な事実だ。歯を失ってしまって肉体的苦痛を受けたが、またそれと同時に精神的な挫折や喪失感を味わって、お酒を飲むことで戦時中の軍国主義や社会に対して反抗心が生まれ、それが駒井自身の中で次第に大きくなったのではないだろうか。私は先生が完全に陶酔したことに出会わせなかったが、そこに居合わせた人の話によると、ある程度まで陶酔すると、突然狂ったように周りにいた人に否定的言葉を投げかけ、反抗的行動をとったのはそのひとつの表れだ。駒井の親友、フランス文学者、文芸、美術評論家の粟津則雄氏の著述を引用してみよう。〈駒井さんにはじめて会ったのは、1960年の1月に安東次雄に誘われて駒井家を訪れたときのことだが、このときの記憶は今も深く刻まれている。早速酒になり、酒をくみかわしながらあれこれ話しあったのだが、彼が口にする感想や批評は、どれもこれもいかにもこの人らしく実に面白かった。ただ、7歳年上であるにもかかわらず、私に対する態度も言葉づかいも、まことにていねいで物静かであって、いささか戸惑いを覚えたほどだ。ところが一時間ほどたつと突然様子が変わった。「粟津さん」と言っていたのが、「やい、粟津」に変った。「 なんでしょう?」「おめえにボードレールがわかるか。」「わかるよ。」「いや、わかるはずはない。」といったふうに、延々と罵倒が続いた。〉陶酔しきった駒井はあの軍事訓練の過酷な体験が蘇り、あの教官がしつこく現れる悪夢を見て、また殴られそうになって必死で抵抗して闘っていたのだ。戦後30年間も。
お酒を呑み始めたらほとんどなにも食べなかった先生だったが、一メーター七十八センチの長身で、しかも大きな身体にエネルギーを供給するのは、噛む必要のないお酒が手っ取り早く、しかも私達が想像を絶する量が必要だった。人生の一番果敢な時期に軍国主義の洗礼を受け、戦争という大きな荒波に翻弄され青年としても芸術家としても悲惨だった。何も戦場で敵兵と戦った者だけが、真の兵士ではない。駒井は戦地に行かなかったが、軍隊の訓練で暴力を受けて心身に大きな損傷を受けた意味では、私の父と同じ戦争の犠牲者と言える。
そう言えば先生は時折外出する際にフランス製ベレー帽を被っていらしゃったの想い出す。僕もご自宅の玄関で濃紺のベレー帽を被せてもらわせた時が一度あったが、残念ながら何故被るのかその理由を聞き忘れてしまった。軍国主義に対するレジスタンスだと胸を張って言われただろう。
それでは上野毛からすぐ近隣の桜新町に話を移して、その後の駒井の画業、晩年の作品にスポットライトを当ててみよう。毎年クリスマスには先生と美子夫人は銅版画専攻の生徒全員を招いてパーティーを催してくださった。一階の居間のテーブルには色とりどりの美味しそうな料理が並び、僕達学生は時間が経つのを忘れて飲んだり食べたりして、夢のような時間を過ごした。パーティーの途中で、玄関にたまたまいらしゃった先生と出会い、先生は指招きをして二階のアトリエに私一人をこっそり入れてくださった。ー部屋の片隅にエッチング・ プレス機が置かれていて、入口のドアの近くの大きな両袖の木製描机の上にはビュランやニードル、スクレーパー、バニッシャーなどの道具類や卓上ルーペなどが置いてあり、その中に大きさが少しずつ違う銅板が数枚並べられていた。ある銅板は既に描画されていて、剥き出しになった銅の地肌の線が、黒く燻されたグランドと対比して明るく輝き、腐蝕を静かに待っていた。机の奥には小さな鏡が立てかけてあって、ドローイングをそれに写して見ながら銅版に描画した痕跡が残り、制作の緊張感がひしひしと伝わってきた。プレス機の周りには制作途中で刷った試し刷りが無造作に置かれていて、その中にはカラー刷りもあり、制作世界の広大さを感じた。スエーデンの映画監督、ベルイマンのモノクロ フィルム《野いちご》の主人公の少年、イーサクのように、私はそこに置かれている総てのものに目が釘ずけになり、心に焼き付けられ、そして魅了された。
さて駒井は日本に帰国してからはエッチングの制作に専念して、1955年以降エングレーヴィングの制作を行わなくなった。巴里時代に制作したエングレーヴィング作品は《佛國風景》や《教会の横》など全部で七点残っているがいずれも小品で、一年八ヶ月近く巴里で制作したのに何故そんなに少ないのか疑問だ。《教会の横》は日本に帰ってからロッカーという銅板を目立てするメゾチントの道具でトーンをつけたと美子夫人からお聞きしている。本来ならビュランで 繊細な線を彫って石のトーンを表現したかったのだろうが、巴里で制作途中のまま 日本に持ち帰ったのだろう。先生の長男、亜里さんが巴里に行った時モンパルナスのノートルダム・ド・シャーン教会を訪ねたが、数十年も前に自分の父親がそこに通い、スケッチしていたと思うと感無量だったと会いした時、話してくださった。
さてその作品数の少なさを解明するには1956(昭和31)年に執筆された《自己喪失の記録》にエングレーヴィングの制作について次のような記述があるので、一部を引用する。〈銅版が彫れないまま何べんも新しい銅版を買って来て気持ちを新しくして仕事に取りかかるのだが、本当に失敗の連続で仕舞いには全く嫌になってしまった。〉1950、60年代の巴里には名刺や招待状などの商業用の凹版製版、印刷をする銅版画工房がまだ数多く残っていて、また版材を取り扱う銅版専門店もあったようだ。先生から直接お聞きしたのだが、彫り損なった版を持って行くと、新しい銅板に変えてくれる店があり頻繁に利用した。また描き直したい箇所を指定すると、一度版を切断した後、新しい銅板を溶接して繋いでくれたそうだ。駒井はおよそ数十枚のエングレーヴィングを制作したが、その多くは気に入らなくてやり直そうと思い、新しい銅板に変えてしまった結果七点の作品しか残らなかったのだ。
作品制作、隠された体質
また巴里留学時代を振り返って、本場の数多くの芸術作品に圧倒されて自分を見失い、〈短い滞在期間のうちになにからやって良いのか全くとどまってしまって結局なんにもできず、何も解らないで終わってしまたようである。〉と記している。 また別の機会で三十三歳でエングレーヴィングを始めたのは遅すぎたと述べている。私がエングレーヴィングを本格的に訓練を始めたのが二十四歳の時だったが、それでも少し遅かった。エングレーヴィング手法は出来るだけ指が柔らかい十歳代のうちから彫りの訓練を始めるのが望ましい。訓練された柔軟な手はビュランを自分の意思通りに自由にコントロール出来るからだ。第二次世界大戦が勃発して巴里に行くのが遅くなったは駒井は悲運というしか言いようがない。
では何故エングレーヴィングでは失敗の連続で、仕舞いには全く嫌になってしまったのか、主な原因は駒井の身体的な要因が考えられる。2000年に美子夫人からお聞きしたのだが、駒井は字を書く時、一気に書くことが出来ずに、ひと息つけて書くが、それでも字がいつも曲がっていたそうだ。エッチングの描画では特に支障がないが、数十秒息を止めて持続しながら線を彫るエングレーヴィング手法には、残酷な言い方だが体質がまったく合わなかった。尊敬する先生の身体的弱点を指摘するのは辛いが、紛れもない事実なのだ。また歯を失ったのが要因で線を彫る集中力と持続力が減少したことが考えられる。私はエングレーヴィングの制作を始めてからずっと数十年間、歯槽膿漏に悩み続けた。また六十歳代初めから奥歯が動き始め、六十歳半ばには殆どの奥歯が自然に抜けてしまった。これは若い時からの喫煙が影響してエングレーヴィングの彫りが全ての原因ではないだろうが、兎に角、長時間の彫りは歯に多大な影響を与える。正確に研磨されたビュランで線を彫るのに強い力は要らないが、奥歯を噛み締め て銅板を刻み込むような過酷な作業を版画家にひいて、歯やそれを支える歯周組織に負担をかけ続ける。歯を失ってしまい歯周組織が壊された駒井にとってエングレーヴィングの彫りは、忍耐力が要るストレスのかかる作業であったことは想像に難くない。
1976年、療養中の病院で口述筆記して編集、出版した技法書《銅版画のマチエール》のビュラン〈エングレーヴィング〉の章をに次のような記述があるので抜粋して掲載してみよう。〈ビュランの技法についてはまだほとんど書いていない。それというのはぼくがビュランに作品はあまり作っていないので、実際どのようにしてその技法を説明してよいのか分からないのである。それでも巴里に一年半位いた時は、美術学校のビュラン彫りの教室に時々行って仕事をして色々教わったののであるが、直接手を取って教えてもらっても、この技法ばかりは絶対に自分でやってみない分からない。そのかわり実際にやってみて失敗を繰り返していちばん早く納得のゆくののもこの技法はだと思う。〉巴里であんなに苦労して取り組んだ技法なのに、誠に正直な謙虚な記述で、技法技術を重要視していた駒井らしい。
日本に帰国してからエングレーヴィングの制作を断念したのは巴里時代の辛い制作体験が主因だが、そんな過去の自分の苦い体験を若い画学生に託してエングレーヴィングを推薦したことは明らかで、私がそのうちの一人であったのは幸運だった。《銅版画のマチエール》で駒井はさらに次のように述べている。〈だからぼくにはまだこの彫刻凹版エングレーヴィングという技法についてなにも特別な心構えをいうこともできないし、実際的なことも分からないのである。それなのにぼくはこの頃銅版画を勉強している人に是非ビュランを一度でもやってみてはどうですかとすすめる。それは前にも書いた理由によるが、最近、割合に良質のビュランが手に入りやすくなったことと、この技法は非常に若い時始めないと決して熟練の域に達しないと思うようになったからである。〉さてここで注目すべきことは、銅版画(エッチング)を勉強している人にビュラン(エングレーヴィング)を一度でもやってはどうですかと薦めると言うことだ。それは具体的にどんな意味かと言うと、酸で銅を腐蝕するいわば他人任せのエッチングだけでは銅のことはよく分かりませんよ、若い時ビュランで銅板を自分の手で彫ってみて初めて銅と言う金属の特質が分かりますと言っているのである。そしてこのことは長谷川先生が銅版画の始まりはエングレーヴィングだからまずそれから始めなさいと言ったことと同じことで、ビュランで線を彫って、銅を手で加工して触って、銅と言う金属の硬度や展延性をエングレーヴィングで理解してから、エッチングを始めても遅くはないですよと言っているのだ。
これは美子夫人から直接お聞きしたエングレーヴィングの制作についての興味深い話があるので紹介する。1961(昭和36年)、史上最大の偽札事件が発生した。大蔵省も驚くほど精巧な偽千円札が日本銀行秋田支店の廃棄処分のお札から見つかり、その後全国各地で343枚も発見された。本券よりも紙質が少し違っているだけで、聖徳太子の肖像画はほとんど違わらぬ精巧な偽札であった。警視庁捜査三課は懸賞金を出して捜査を行った。こんな高度な製版技術を持いる人は限られていると思い、銅版画家第一人者の駒井に疑いがかかり、桜新町の家に刑事を派遣した。応対に出た駒井は〈 だから、言ってやったんだ、千円札を刷るよりは僕は銅版画をする方がずっとお金になりますよ、とね。〉と言って刑事を玄関先で追い返したそうだ。その後大蔵省は伊藤博文の新札を発行して事件は解決したが、犯人は捕まらず、未解決事件となった。
今日でもエングレーヴィングは大蔵省造幣局で、紙幣の肖像画の原版を製版していて、大勢の上席工芸官達が日々彫りの訓練している。その人達は造幣局が指定した人物を彫り、伝統的な描画法で人物画を制作しているが、アルチザンとしての技術の正確さが要求される。それに反して私のようなアーティスト・エングレーヴァーは自分で人物や風景の画題を見つけて製版するが、描くものに対する自由な感性が重要視される。同じエングレーヴァーと言っても内容や価値観が根本的に違うのだ。警視庁の刑事がそんな微妙な違いが分かる筈がなく、駒井家に捜査に来たのは仕方ないことだった。警視庁は何故肖像画エングレーヴィングの経験者を捜索しなかったのだろうか。
エッチング、様々な技法
1950年代の中頃から駒井はエッチング技法に方向転換して作品を制作していくが、エッチング技法にはエッチング、ソフトグランド・ エッチング、アクアチント、シュガー・アクアチントなど多数の技法があり、それらを正確に表現出来る技量が必要だった。駒井は英國人銅版画家、イー ・エス ・ラムスデン著の《アート・オブ ・エッチング》を読んで未知の技法を研究していた。晩年出版した技法書、《銅版画のマチエール》は全体の構成やイラストレーションなどラムスデンの影響を受けている。この本はどうしてか、ご自宅の玄関正面に備えつけられた本棚に収納してあって、2000年にご自宅にお伺いした時、美子夫人が手渡して見せてくださった。玄関に置いてあったのは先生が外出する際に持ち歩いていたからだろうか。
また駒井は長谷川先生の作品でどのようにして制作したのか解らない技法は、巴里に行くたび質問してそのプロセスを解明しようとした。帰国してから《R婦人》のバックのレース模様のように表現法を幾度も実験し、ソフトグランド技法を自分の技法にしている。
それでは二つの作品を例にとって駒井芸術の核心に迫ってみよう。1951年に制作された《束の間の幻影》はサンパウロ・ビエンナーレで 日本人が初めて国際展で受賞した作品だが、暗い闇からピアノのメロディーが聴こえて来るような奥行きと広がりがある秀作だ。ウクライナ生まれの20世紀の作曲家、セルゲイ・プロコフィエフの楽曲の題名から取ったタイトルである。技法は一般的な松脂を使ったアクアチントではなく、サンドペーパーを使ったアクアチントだ。英國人銅版画家、イー・エス ・ラムスデンの技法書、《アート・オブ・ エッチング》から発想を得た技法である。制作過程を説明すると、まず銅版にグランドをひき、描画を見やすくするために、テーパーと言うロウソクの火でグランドを黒く燻す。次に目の荒さの違うサンドペーパーを様々な形に切り抜き、版に当てエッチング・プレス機で軽い圧力をかけて、サンドペーパーの砂が銅版に突き刺さるようにする。サンドペーパーを剥がし、版の表面に水をかけながら突き刺さった砂を筆や指で擦り完全に取り去る。版を見てニードルで点を打ち、絵の全体の構成をまとめる。版を希硝酸溶液に浸けるとグランドに穴を開けた点が大きさに応じて強弱に腐蝕する。線の両側の発生する泡を鳥の羽で取りながら腐蝕を進める。版を水洗いしてルーペで腐蝕の具合を確かめて、少ないようならさらに再腐蝕する。エッチングの制作は数多くの工程の積み重ねで完成するが、一つの工程でも欠けると絵の表現すら出来なくなる。全ての過程でいつも正確な判断を下さなければならない。制作工程の途中で随時消したり、描き直したり出来るドローイングやペインチングとは違って、版画制作では刷ってみないと結果が見えない、言わばブラインド制作法である。したがって何よりも豊かな制作体験が必要とされる。十分な腐蝕が施されていたらベンジンでグランドを取り除き、次の工程、刷りの準備をする。
駒井芸術の本質
1956年に試作された《手》は漆黒の真っ暗な闇に細長い手が浮かび上がり、不思議な魅力があり私が最も好きな作品であるが、シュガー ・アクアチント技法で制作されている。ビンに砂糖をお湯に溶かして濃い溶液を作り、描く溶液を弾かせるためにミシン油を版の表面に薄く塗る。銅版に筆を素早く動かし、砂糖溶液を水滴のように弾き、液を残しながら描く。必要のない箇所は布で拭き取る。その上に液体グランドを版の表面に流す。しばらくグランドを乾燥させて、ぬるま湯を入れたバットに版を浸け筆で軽く擦ると、砂糖液が盛り上がっていたところのグランドが剥がれ、筆で描いた形が銅版に露出する。その版に細かい粒子の松脂を振りかけ、電熱器で軽く熱を加えて松脂を版に定着させ、希硝酸溶液に浸けて数分腐蝕する。次に液体グランドをベンジンで取り去り、止めニスで手の形を描く。再度松脂を振りかけ熱して版に定着させ少し長く再腐蝕して背景を真っ黒になるように製版する。アルコールで松脂を、ベンジンで止めニスを取り除く。版をヒーターで温めローラーを使ってインクを盛り、ダーバーで凹部にインクを詰める。手で揉んで柔らかくした寒冷紗で版の平らのところのインクを拭き、水を含せて弾力性を持たせた版画紙を当て、ブランケットを被せてエッチング ・プレス機で圧力をかけて印刷する。これだけのプロセスを手早く、しかも的確に作業していかなければならない。この絵のイメージを版の上にいかに手早く定着させるかが、想いついたイメージに似合う技法を自分の引き出しの中から選び、出来るだけ速く製版してその時の感性を版に封じ込める。描く対象を迷ったり、躊躇していては感性が弱まってしまう。イメージの素早い版への定着 ー〈速い写実〉が駒井芸術の本質である。
それにしても《手》ような作品を一日のうちに完成させるのだから、まさに驚くべき才能である。私は駒井ほど全ての過程を冷酷なほど的確に、しかも速く制作出来る銅版画家を他に知らない。駒井の制作法は、長谷川先生のように数ヶ月前からエスキースをして周到に準備し、いく日も描画を続けて製版をするのと全く違っていた。描きたいものをパッと飲み込んで、一瞬の内に消化して吐き出すといったような制作法だった。イメージした表現をするための一つの技法を選んで製版する。そして完成した版を刷ってみると用いた技法の特徴が鮮明に表れ、手で描くのと全く違った効果が表れているのである。この制作過程での変換ー〈技法の変容〉が駒井芸術の第二の特色である。今日ではシュガー・アクアチントやソフト グランド・エッチングなどの技法は多くの版画家が用いているが、1970年代初めは未だ普及していなく、我々は駒井がこんな効果をどうやって製版して表したのだろうか、当時はどう考えても分からないものもあった。駒井はずっと永遠にマジシャンでありたかったに違いがない。
そしてそれは歯と歯周組織を失って描画の持続力が低下した駒井が必死で見出した制作法でもあった。私は駒井から制作は勢いよく始め、イメージをより速く版に定着することが、感性を封じ込めた生き生きした作品を創出来ることをその時学んだ。
駒井は海外の近代画家、版画家の沢山の作品を私に紹介してくださった。巴里を訪れる度、1876年創設の老舗画廊のポール ・ プローテに立ち寄り好みの版画を良く購入していた。1970年美子夫人がヨーロッパの旅に同行した時、オールド・ マスター ・エングレーヴァーの作品とシャルル・メリヨンの作品を購入したと夫人からお聞きした。
桜新町の玄関には銅版画が掛けてあって、正面の壁の作品はシャルル・メリヨンの《ポン・ヌフ》だった。またある時期、右側の壁には白黒のコントラストが美しい 《プチ・ポン》が掛けてあって、私はいつかそんな奥行きのある風景画を描いてみたいと思っていた。駒井はメリヨンのことを実際の風景を縮小するのがとても上手い作家だとおしゃっていた。またお気に入りの画家、オディロン・ルドンの銅版画の先生、ロドルフ・ブレスダンのことを教えてくださった。日本ではブレダンと呼んでいるが、正式にはブレスダンと呼ぶのだと、教室で図版を見ていた私の後ろに来て教えてくださった。
その頃の美術雑誌《みづゑ》にブレスダンの特集が掲載されていて、買い求めて初めて見る《よきサマリア人》図版に釘ずけになり、その濃淡の幅がある微細な描画を長年眺めていた。私は空のステップル・エングレーヴィングの点刻が好きになりその表現に触発された。《枝》は強弱のある腐蝕の線のコントラストが美しく、小品でありながらブレスダンの秀作である。
メリヨンの作品は、《銅版画のマチエール》に《吸血鬼》《ノートルダム寺院回廊》《ノートルダムの後陣》などの図版が紹介されていて、白黒の対比が激しい画面にメリヨンのエスプリが封じ込められ、何か作品の背後に作者の狂気のようなものが感じられた。また《屍体公示場》のような作品は死を暗示させ、それまで見たことのなかった異質の緊迫した画像だった。私のそんな若い頃の体験がノートルダム聖堂のエングレービングの制作に繋がるとはその時は思わなかったが、その随分後に六点の作品を完成させたことに満足している。
後期作品
では1970年中頃に話を移して晩年の制作を振り返り、その作品を追求してみよう。1974(昭和49)年駒井は突然舌癌だと診断されて、国立がんセンターで手術し、以後定期健診を受ける。その後自宅で療養なされていて、クリスマスにはご自宅に招かれてお伺いした。お顔の顎に手術の跡が見えた。私が近ずいて挨拶した時、先生は少し恥ずかしそうな表情をなされたが、お顔色も良くもうすっかり回復なされたと思った。その頃本格的なエッチングを制作したいという欲望が募り、線描だけのエッチングの制作を始める。
1975年11月に自由ヶ丘画廊で開催された個展のオープニング・レセプションに銅版画の生徒全員で出席した。《岩礁 》《ビンとコップ》《 帽子とビン》などの作品が展示されていて、それまでの二次元のグラフィック的な作品と異なった三次元の絵画空間の奥行きと拡がりがある作品で、その硬質なクロス・ハッチングが見事に施された画面に魅了されたのを想いだす。
絶筆 《静物》の前に完成させた《帽子とビン》について述べてみよう。画面右のビンとテーブルに敷かれたクロスは、パブロ・ピカソの初期のエッチング《貧しい食事》に影響を受け描画したものだ。大好きだったボードーワインのビンは素早いタッチの線描が幾重にも折り重なって漆黒の黒に印刷されている。テーブルの左に置かれたソフトハットは、穴かがりが眼のように見え、私にはあの芸術祭の夜のソフトハットを被っていた先生のお姿を彷彿させられる。この作品と《ビンとコップ》は腐蝕時間が銅板よりも短いジンク板を使用しているが、ご自分の体調がはかばかしくないと判断からだずいぶん後で知った。これ以上の苦渋の決断が他にあるだろうか。駒井は自分の死が近いことを自覚しつながら制作と人生を同時に完了させたのだ。
会場で展示作品を凝視している若い男性と始めて出会った。河口清巳さんは駒井作品の愛好家で、当時英国ケンブリッジ大学の学生だった。私がその年の暮れに倫敦に留学することを伝えると、ぜひケンブリッジ大学のカレッジ・ホールに立ち寄ってくださいと言われたのだが、お互いのスケジュールが合わなくて実現出来なかった。
その後ずっと後2010年に銀座の資生堂ギャラリーで開催された個展で偶然河口さんと再会して親交を深めた。私のエングレーヴィング作品を早くから評価してくださり、沢山の作品をご友人達に紹介していただいた。また京都の老舗旅館、柊屋の大女将のポートレート作品をプロモートしてくださり、作品はアメリカ、クリーヴランドのギャラリーで販売している。
河口さんは現在も変わらず私の後援者であり、最も信頼のおけるコンサルタントでもある。
事件
駒井は個展後、ご自宅で静養なされていたが、1976年突然舌癌肺移転が判明して入院、放射線治療を受ける。四ヶ月間の懸命にな治療にも関わらず、11月20日国立がんセンターで死去した。
当日病室で付き添いをしていた渡辺達正さんからその日の午後電話をいただいて、先生は朝立ち上がると「歩けない!」と大声で叫ばれたとお聞きした。先生の死は覚悟していたが辛い別れだった。葬儀の翌日私は羽田から倫敦に飛びたった。
さて人の死についてあれこれ検索するのは誠に恐縮だが、駒井がなぜ舌癌になって三年足らずの期間で病状が進行していったのだろうか。アーティストとしての駒井に焦点を合わせて考察してみよう。ガン細胞が顎に増殖したことで想い浮かぶのは、軍事教育で受けた教官による暴行である。歯を折られ顎骨にも重大なダメージを受け、中年になってより弱くなった箇所にがん細胞が増殖したと考えてもおかしくないし、細胞はそんな箇所にあっという間に増殖する。
次の理由は銅版画家特有の腐蝕作業の影響が考えられる。1970年代初めに東京芸術大学で駒井の助手だった中林忠良さんの話によると、駒井は密閉された腐蝕室で希硝酸溶液に浸けた銅版面に出る泡を取るため、長時間、しかも煙草を吸いながら腐蝕作業をしていたそうだ。芸大のその腐蝕室を私も見たことがあったが、中庭に面してガラス張りの陽当たりの良い温室のようだった。
その当時はまだ腐蝕作業で発生する有毒ガスが人体に与える影響がよく解っていなかったから、今考えてみると著しく危険だった。中林教授の報告を引用してみよう。〈今日では硝酸の有毒性は常識になっているが、師の存命中は硝酸を使うことはごく当たり前のことで、狭い部屋のしかも冬場の窓を閉め切った中での就寝は劣悪な状態だったといえる。硝酸の腐蝕液から蒸発する蒸気と発生するガスは、鼻腔や口から吸引される粘膜や唾液に溶け硝酸にもどって下顎に溜まる。歯牙酸触症という、歯が犯され印刷工の職業病に数えられるものだ。〉駒井が腐蝕作業の影響で酸が下顎に溜まり、がんが骨組織を侵食していったのは、若い時受けた暴行を受けて顎にダメージを受けたことと全く関係ない事項だとは、誰が言い切れるだろうか。
駒井の腐蝕した銅版を美子夫人に見せていただいたことがある。ごっそり深くえぐり取られた腐刻線は、ニードルで描かれた線が強弱そのまま腐蝕され、線の底まで薔薇色の輝いていた。銅版の腐蝕は今日では垂直に進行し、また有毒ガスが発生しない工業用の塩化第二鉄溶液に変わり、希硝酸液は使われなくなった。しかし垂直と同時に水平に進む希硝酸液に比べると腐蝕の精密さでは、はるかにその性能は劣る。駒井はまさに身を呈して、線に発生する泡を取り、垂直と水平のバランスのコントロールをとりながら自己のイメージを腐刻していたのだ。駒井のような腐蝕はもう永遠に不可能だ。
ロマンス
さて駒井哲郎の56年の生涯を締め括るにあたって、友人、知人達があまりの触れたがらないが、どうしても省略出来ない事実がある。1940年代に始まったR夫人のモデルとされているある女性とのロマンスの話だ。1970年代当時、私は中央線国立駅北口から丘を登った所にあったアメリカン・ハウスを高校時代の小倉寛昭先輩と浪人時代の親友、月岡一郎君とで借りてスタジオにして住んでいた。隣町に住む東京造形大学の絵画科の月岡君の同級生だった上野山啓君と同じ関西の出身だったこともあって1973年頃知り会った。ある日BMW R26単気筒エンジン、シャフドライブのクラシック・バイクでスタジオにやって来た上野山君は私に「君の大学の駒井という先生はどんな人や、僕の叔母さんと噂になけど?」と質問された。「駒井先生は僕の銅版画の先生やけど、今度聞いとくわ。」と答えた。なんでも上野山君の話ではその叔母さんは父方の九人兄弟姉妹の三女、安子さんで、姉妹の中で一番美人だったそうだ。私が1974年の夏休み、芦屋の上野山君の実家に泊めて頂いた時、ご両親にお会いしたが、お父さんから姉、安子さんは女子美術大学を卒業して、東京の建築家、平田重雄氏と結婚していたのだが、その後の噂にはとても迷惑しているとおっしゃっていた。
1943(昭和18)年に駒井は当時渋谷にあった松田平田設計事務所に就職して建築設計を学ぶ。その後1945(昭和20年)再び事務所で仕事を手伝うようになり、平田夫人と親しくなる。 二人とも美大の卒業生であったことで、芸術の話をしたり、版画制作のことなどを文通して二人の仲が深まり、噂が広まったそうだ。そこで1974年私は上野毛校舎の銅版画教室で放課後、先生に勇気を振り絞って平田安子さんのことを駒井に聞いてみた。「先生平田安子さんをご存知ですよね?」「ああその人なら先週も病院へお見舞いに行って来ましたよ。」という素っ気ない返事が戻ってきた。上野山君の後日の話によると、安子さんは結婚後脊椎カリエスを発症して、長い間病院で療養生活をなさっていたそうだ。
それからずっと後、2012年私が美子夫人と鎌倉近代美術館にご一緒させていただいた時、平田夫人のことをお聞きした。「その人は駒井が私と結婚する前に知り合って、憧れていた年上の女性でしたよ。」とお話しされた。
駒井が《束の間の幻影》の制作を始めた戦後すぐの何も無い荒廃した暗い時代に、安子さんは駒井を励まし続けただろう。芸術家は独りで仕事しなければならないが、外界から制作を見守って作品について感想を述べたり、助言をする人がいると、時には自分の能力以上の仕事をすることがある。安子さんの芸術家としての駒井に対する〈愛〉は駒井を奮い立たせ、結果として《束の間の幻影》が国際展で戦後初めて日本人が受賞するという美術史上の快挙となった。二人が成し遂げた偉業に比べれば、人の噂など取るに足らぬものだ。一体どのくらい人が駒井のその作品から感動と感銘を受けたことか。
私が初めて《束の間幻影》見た時の印象は、ええこんな作品を戦後直ぐに作っていたのかと驚いた。荒廃して何もかも焼けてしまった戦後の日本の社会に、突如欧州の三次元空間の洗練された一級芸術品が現れたようだった。《束の間の幻影 》はそれほど卓越した作品で、計らずも出来てしまったのだ。もう二人ともとっくに亡くなってしまったが、漆黒の闇で駒井が制作中に垣間見たものは、安子さんが差し伸べた微かな光に投影された、まさに一瞬の《束の間の幻影》であったに違いない。
業績と遺産
それでは最期に駒井の私達に遺した業績について述べてこの考察を締め括ることにしよう。私にとって駒井哲郎は担当教授であったが、精神的には師というより一人の人間、芸術家として接していたかった。私はそれよりも駒井の作品や制作の取り組み方、大きく言えば生き様に興味があり、当時制作されていた作品群から大きな影響を受けた。
国立駅前の増田書店で見た埴谷雄高著の《闇のなかの黒い馬》の素早いタッチのエッチングを見た時の衝撃と驚き、その頃文学と絵画の関係性に悩んでいた私にとって、駒井の銅版画に対する取り組み方は、何事も恐れないような大胆さと、未知の分野に自分を投げ込んでいくような潔さと、何よりも制作に対する真摯さと、そして著者への尊敬の念があった。若い時受けたその衝撃は次第に私の身体の中に浸透していって、その後の私の銅版画制作の礎となり、長くその力強いエネルギーの恩恵を受けた。
1970年代の前半、多摩美術大学で駒井に出会ってエングレーヴィングを薦められたことは、私の人生を決定ずけることになった。制作に膨大な時間がかかるエングレーヴィング手法を選択した私は、駒井の託した夢をこの四十五年間作品を制作して実践してきた。1973年から76年まで先生と接した四年間を今振り返ってみると、私は当時世界最高峰の美術教育を受けたと断言出来る。何故なら駒井の銅版画に対する理念が明確で、しかもそれはどんな情況にも絶対にぶれなかった。随分後で欧米の各地の美術大学を訪問して分かったことだが、1970年代の日本の美術大学では、世界のどこの国よりも卓越した教育理念と設備で版画教育が行われていた。その理念とはオリジナル銅版画作品を制作して普及することだった。凹版画作品には一般の商業印刷とは違って微細だがマチエールがあり、絵画のような芸術作品だと言うことを世間の人々に認識してもらう目的があった。銅版画作品は手に取って直に見てインクが紙に立上がっているのを感じてこそ鑑賞すると言えるのである。じっと作品を凝視していると、暗く見える太い線はインクの量が多く、明るい線はインクの量が少ないのを感じ、私達の眼はその量の差も判別出来るのが分かってくる。駒井は西欧の芸術概念を初めて日本にもたらし、実際に作品を制作して銅版画を普及していった意味で真の先駆者であったと言える。
さて駒井が成し遂げようとした理念の普及には、駒井が遺したオリジナル作品を見るの一番良い方法だが、残念ながら今日に至ってもいつも作品を見れ、鑑賞出来る公共施設は存在しない。欧米の博物館や図書館のように、出かけて行けばいつでも見たい作品を額装しないで直に見れる版画スタディング・ルームの新設を切に願うばかりだ。
今年2020年は駒井の生誕100年、駒井が成し遂げようとした理念は、今 現在どこまで普及しているのか、駒井が生存していた当時よりも後退していないか、もう一度反省の意味も含めつつ、現代の情況を検証してみよう。戦争という時代の大きな流れに翻弄されながら、自己の芸術の本質を追求して、急ぎ足で駆け抜けた五十六年の人生、私達は駒井が次世代の版画家達に与えた業績を再検証するとともに、その人生で駒井が遺した芸術の本質ー〈速い写実〉、〈技法の変容〉 はどんな実態で、どこに存在するかもう一度探索の旅に出てみるのも、また自己の新しい発見に繋がるかも知れない。
(銅版画家)
Realism First - Tetsuro Komai by artist and printmaker Takuji Kubo, 2020
First Encounters with Professor Komai
In the spring of my third year, after I entered the Department of Painting at Tama Art University and had majored in printmaking, there was a welcome party for new students. I arrived at Kaminoge Campus a little late and looking for the venue. Unusually there are many people in the book seating room at the left of old library entrance, and a man whom I do not know someone handling a pale blue sake bottle and he was dancing at this strange location for such a place as a library with his student’s cheering in loud voice. I watched for a while, and dance was very emotional and it seemed skill and cool. I was surprised when I asked senior Koshiro Matsui, “Who is he?” he said to me with a smile, “Our Professor Tetsuro Komai!” Professor Komai looked forward to the welcoming party and came to university early, a friend later told me that he had drank an 1800ml bottle of sake from the daytime got drank faster than the students. I still remember vividly that I felt a sense of closeness to Professor Komai with the seriousness and cleanliness of his dance.
In September 1973, the classes began in a copperplate studio in the basement of the new building. Professor Komai began class on Wednesday, just past 1 o’clock in the afternoon, he always wore a dark blue suit with a tie and did not wear the practical classroom dress other professors. In the class, Komai stood behind the student's drawing desk and asked, “How is your work going?” and he looked at the trial proof that the student had undertaken. Komai didn't give instructions on how to improve the work, or to say that this was better, and he always respected the independence and sensitivity of the students. Komai demonstrated proofing of the copper plates produced by the students, he rolls up a muslins and packs it in a plate to wipe off the ink remaining on the plane of the plate, but when Komai raises his arm and opens his hand like a magician, it is not dirty at all, everyone raised a surprise voice at the sight. When others tried to do this, they were unable to imitate what he had done, it was like magic.
At that time, our students mainly produced large-sized works using etching techniques, but Komai did not leave the plate no matter what, but taught us to bubbles off the lines while looking at the plate, because corrosion is the most important production process. Also, when students print completed plate with an etching press, the printing paper be moistened with water from the previous day to make the paper more elastic like in nature, and when the plate passes the rollers, there is no sound, and we we’re instructed to print with only weak pressure.
After class at 4 o'clock in the evening, Komai went out with his assistants and students, and enjoyed drinking with everyone around Jiyugaoka area. We understood that Komai who came back from France, and learned the lifestyle in Paris, went on nights out in a suit. It was when we were in the fourth year of students,I remembered Komai’s episodes of copperplate production during his time studying in Paris and the French copperplate artists he worked with. Komai's stories often resonated a comfortably in my heart as a chanson flowing along the Seine, and intensified my longing for the Western studies, and the nations with their artist.
During that time, engraving method became a hot topic among seniors, and among all of the techniques, there were the intaglio printing techniques; it has the longest history, is the most difficult to draw, requires an enormous amount of time, and can produce the most vivid and delicate expressions with human hands. Some seniors were already producing engravings, Ken Watanabe expressed crayfish in a simple line, and I was fascinated by the fresh and precise expression. I was not satisfied with indirect way of etching technique that was used to corrode the lines with acid into plates, and I wanted to study the direct way of engraving techniques. However, to make that happen we must first go back to Komai's previous experience with copperplate print production.
Many studies on Tetsuro Komai have been written about thus far, but most of the studies praise the achievements of Komai as the first international Japanese copperplate artist after the Second World War. I would like to get closer to the original image of Komai as an artist, based on the stories I heard from his relatives and friends, and based on the perspective of a copperplate printmaker, and as an engraver. Let's start a discussion that involves the engraving classes I actually attended, and the artists introduced by Komai, and their stories of the work. This article includes information about the body of the individual and some aspects of his family’s private matters, but I have obtained the approval of the Komai family and Uenoyama family for this publication. Although there are some unknown facts to be announced for the first time, it does not defeat or deny Komai's artistic achievement so far, but even praises this great person from his own artist life.
Biography
Tetsuro Komai was born in 1920, in Nihonbashi Muromachi, Chuo-ku, Tokyo, as the sixth son of nine siblings. In 1933, he entered Keio University ordinary courses. There was an etching press in a classroom, and he was taught etching by the art teacher. Kinhei Senba was printing etchings in the classroom and Komai held a strong admiration, “I want to print etchings like Senba,” I heard that from Mrs. Yoshiko Komai, whom I have often spoken too.
Komai while at Keio University secondary course in 1935, attended the Japan Etching Association in Kojimachi, Hanzomon hosted by Takeo Nishida and studied drawing, dry points and etching. He started to learn etching at the age of 15, but the production experience he had in his youth would have been a huge impact. At the same age as Komai, I produced copperplate etching in the art class at Osaka City Hannan Junior High School and I was fascinated by precise and delicate expressions.
Komai also had previous experience when he looked at the work of a European painter and printmaker at the Association. In his later years, Komai said that he saw Odilon Redon’s work and wanted to became a copperplate artist printmaker.
In 1939, Komai enter the Tokyo University of the Arts oil painting facility main course, and studied oil painting at the Keigo Kobayashi classroom. In 1941 he exhibited the etching “Riverside” at an art exhibition and was selected as a prize winner for the first time.
In 1943, after graduation from the Tokyo University of Foreign Studies. Komai joined Matsuda Hirata Architectural Design Office in Tokyo, and studied architectural design with Shigeo Hirata. In the same year, the Japan Print Council was established, he became a member.
Komai’s experience in the military
The dark shadow of the Pacific War that broke out in 1944, Komai finally called on the army and entered the Mizonokuchi troops of Kawasaki City. An artist printmaker, Sachio Fukazawa told me about the harsh experience of Komai in this unit, so I will open this content public for the first time in Japan.
I worked as an assistant of Professor Yukio Fukazawa at the printmaking class of Tama Art University Painting Department for four years from 1981, but one day I was alone with Fukazawa in the laboratory, and he told me a story. Komai and Fukazawa sat next to each other at the reception of the Japan Print Association when Fukazawa met Komai for the first time. Komai told Fukazawa that “I had a terrible experience in the army, the instructor continued to beat me often and very badly, and he even broke out my teeth, due to these beatings.”
Violence was banned in military training at that time, but it was only face-to-face, and violence was frequently used in armies throughout the country for no particular reason. Komai was continually beaten by the instructor just because he was tall, handsome and highly educated. When I think of the childish thoughts and low-level actions of the instructor, my anger comes up from the bottom of my stomach, but the idea was supported by militarism at the time, and no one could oppose it. If Komai had been enlisted one year later, it would have been near the end of the war, so that no such tragedy may have occurred. Komai's loss of teeth will have a long and profound impact on his whole life. My father was born coincidentally in 1920, the same year as Komai, but he returned harsh war experiences that divided his life and survived on the Southern Front.
In 1945, Komai was discharged from the army because of his morale, then his house in Nihonbashi was burned down by an American air raid, and most of the oil paintings and copperplate prints he had produced were burned and destroyed, a sad loss. Komai and his family stayed in Karuizawa, the oldest summer resort in Nagano Prefecture and he was present for the end of war in August of 1945. Komai then came back to Tokyo to help work again at the Matsuda Hirata Architectural Design Office.
In 1947, a new house completed in Sakurashinmachi, Tokyo, he lived with his mother and his brothers. In 1949, Komai established a small atelier in the garden of a new house. There is a monochrome photograph which Komai was working with to create a print using his first etching press. In seeing this, I felt the artist's keen willingness to become peaceful and concentrate on creating his art work and challenge the new and unknown world.
Just after the war, artists could hardly buy copperplate materials in Japan, and the ink was obtained from black pigments and burned linseed oil, and kneaded and printed by themselves. Komai had only poor materials and paper, and only a small part of his edition could be printed after the new plate was completed. Komai's works are still sold at a high price and that is outstanding enough, but the main reason is that the initial work has not been printed. Komai had copper plates, so it was possible to print it later and put an artist's signature, but Komai's life was over suddenly before he could realize this desire to complete all of his printing.
Early works and awards
1951 Komai entered the “Vision Fugitive” into the Sãn Paulo Biennale, and he won the Japanese and Brazilian Prize, and was awarded the first international exhibition by a Japanese artist after the war.
In 1952, Komai became acquainted with his wife, Yoshiko Yoshikawa. Komai entered the “Vision Fugitive” into the Black and White International Print Biennale at Lugano, and won the best award along with Shikou Munakata, wood block print artist, establishing his position as an international artist.
In 1953, Komai held his first solo exhibition at Shiseido Gallery in Ginza, Tokyo and announced a series of “Fugue Somnambule” (Fugue of sleepwalking). This solo exhibition was an epoch-making exhibition that exhibited the works produced by the first engraving technique in Japan. Yoshiko told me about this solo exhibition. “The work wasn't selling at all, Komai and I were very disappointed, and it was a salvation that Shuzo Takiguchi, art critic appreciated the work.”
Although the years had passed since the war, and even though it was Tokyo, there were still few opportunities for people to look at copperplate prints, and there was no reason for people to know about engraving. Abstract and imaginary works expressed only by simple lines would have been understood only by those who have a deep knowledge of prints. I know and have felt the suffering and conflict of Komai as the first Japanese copperplate artist and pioneer. Even in my own life and time, it could be difficult to gain domestic and international attention for my own works, how much harder it was for Komai? It was a great struggle to gain and move forward in the art of printing and engraving. Komai wanted to create a full-scale engraving. To that end, he studied French at the Tokyo University of Foreign Studies and prepared studiously.
Paris
In 1954, Komai passed the French government’s examination for privately-sponsored in study French and also got engaged with Yoshiko Yoshikawa. He left Yokohama Port, and arrived in Paris via Marseille a month later. He met painter Gyōji Nomiyama and woodblock printmaker Fumio Kitaoka who had already lived. The next day, with a letter of introduction from Koshiro Onchi, a leader of creative prints movement, Komai visited Kiyoshi Hasegawa who had lived in Paris since 1918, and producing copperplate printings. Komai told Hasegawa that he wanted to master copperplate printmaking. Hasegawa told Komai, “Because engraving is the beginning of all copperplate techniques, you should start there first.” Hasegawa introduced Komai to Professor Robert Kami of École Nationals Superieur des Beaux-Arts de Paris, and he began working on the engraving techniques in earnest in the classroom of Burin. Komai would continue to produce engravings while overwhelming great Western art works, such as the Edmund Rothschild Collection Exhibition at the Orangery Museum in Paris.
In 1955 Komai stayed in Leverkusen, Germany for a Japanese painter exhibition for a while; but, Komai also stayed in Europe for a year and eight months, and I think it was a bit shorter than my experience in Europe. Is that because the study abroad system at that time was limited to two years? Since Komai had studied French for several years, his daily conversation in French did improve. If Komai stayed one more year, the result of his stay might have come out much better. During his stay, some collector that had helped him also purchased some of his works.
I stayed in England two years and seven months, but it was from the second year that I was able to digest my Western art to some extent and make my own work in earnest. Anyway, I went to the museums frequently, and I found it useful to take notes of all the exhibits in the room. I wasn't just looking at the exhibits, but when I wanted to know the background of the items, I naturally digested the works. Fortunately, I met the print director, James L. Hildebrandt, who purchased his favorite selections from my works. If I didn’t meet him, I wouldn't have been able to stay for two years.
I met French literature Jiro Nomura who was same ship as Komai on the way to France and on the way back, and I had opportunities to talked with him at the receptions of the exhibition. Nomura often act together with Komai, and he told Komai that they should go back home together. I heard that Komai was still unskilled in Paris and came back as was stated under Mr. Hasegawa’s advice.
In December 1955, Yoshiko went to meet Komai who arrived at Yokohama Port. I heard many times that she would say, "You have come back." Yoshiko would have been very happy that her fiancé returned home safely. They married in October of the next year, set up a new house in Nishi-Ogikubo, Suginami-Ward, Tokyo, and Komai went to Sakurashinmachi and started production of his works.
Komai then participated in the 〈Experimental Workshop〉 hosted by Shuzo Takiguchi, and he had friendships with many poets, critics and artists. These people had published numerous poetry portfolios, and so Komai worked and created many additional works with these people and became the leading copperplate artist. In 1962, Komai was appointed as a part-time lecturer at Tama Art University, Department of Painting, and gave practical instruction.
Burin engraving
Let's return to the copperplate class at the Kaminoge campus had taken. Well, that's the yearning engraving, but Komai declared in front of the new students that "Because all engraving begins with copperplate, let’s start with it,” the same thing Komai heard from Hasegawa in Paris. Thus, new he students who have been recommended by Komai to get an unknown method struggling with lines on a copper plate with a tool called Burin, which was provided in the classroom. Here they were try to make that technique their own, and it did’t go easy that the lines could be engrave straight away. I wanted to have my own tools, I ordered American-made direct burins, large, medium, small three, from the catalogue of Bumpodo the old art material shop in Jinbocho of Kanda, Tokyo.
I also ordered six special type of burins for woodblock engraving and scraper with burnisher. Then I bought rough and medium oil grindstones at a hardware store, and started by learning the burin's sharpening. Katsuhiko Yoshida, who was senior and had already produced engravings, taught me in detail the fine sharpening methods.
When you purchase a burin, first sharpen the two under sides of the burin and it has to be flattened to the same area, then grade the small side of the blade to about 45 degrees to make the three sides fit together properly. It is very difficult to judge whether the angle of the small surface is polished more than 45 degrees or less according to the length of the blade, and the fine angle adjustment is more difficult than that. I was able to adjust them well after sharpening the burins and engraving every day for five to six hours a day, for about a month.
Sit diagonally at about 30 degrees toward the drawing desk, hold the blade of burin with your thumb and forefinger, and bend the other fingers under the blade and flatten it so that the peak of the blade is directly straight up. Insert the burin blade tip lightly into the copper plate at 45 degrees, and then slowly lower it as it is, start going along a line. Then, if you move your hands and arms forward and go with your upper body together, you will be able to engrave a long straight line. As long as you can grasp the point at which this line begins to be engraved, the burin will advance and engrave a clear line without applying any strong force in the front. Burin will kindly tell you that the line will be engrave from now on. Ignoring the burin’s moving path and it will engrave the plate in a screwing before lowering the burin, the blade tip then thrusts into the copper plate and cannot moved forward as beginners often do make such a mistake.
When you finish engraving the line, turn the burin up to 45 degrees and remove the blade to finish engraving the line. If you don't do that, it will remain the splits on the surface after the engraved line, hurting your hand holding the plate. If you forget, use a scraper to remove the scissors from the direction you engraved the line.
A burin with its tip polished to 45 degrees has a line engraved when it rises from 7 degrees to 3 degrees from the plate, and this is called the clearance angle, but it must be engraved within the range of 38 to 42 degrees from the cutting edge.
Processing wood with metal is easy for us Japanese, but processing metal with metal is unfamiliar. Let's briefly explain how it can be processed. The hardness of a metal can be easily measured with a hardness meter, but the hardness of copper (HBW) is 80 to 150, and the steel of burin has a hardness (HBW) of 500 to 600. A sharp line can be engraved with burin that has been sharped accurately, due to this difference in hardness.
Copper and burin steel are compatible with each other, and copper is highly malleable, making it easy to modify and the best plate for work productions. I practiced engrave parallel lines one millimeter apart one by one carefully and overlaying the parallel lines on them. This is called cross hatching, but it is the most brilliant and beautiful expression in engraving. A dark tone can be expressed by narrowing the interval between parallel lines, and a light tone can be expressed by widening.
In the year of 2000, I demonstrated this method to my new American friend, Kevin Vinson, and he said with great joy, “Wow, I can’t see the lines, but under a magnifying glass, I can see 10 lines in 1 millimeter span! It’s so beautiful!”
Next, try to practice engraving curved lines. To engrave curved line, hold a hand with a burin on the desk and slowly turn the copper plate with one hand. Since there are more ground contact surfaces of the burin and copper plate than straight lines, you must proceed slowly. Engraved hatching and cross hatching with both ends narrow and thick centered are used to express the human body, and are typical drawing methods that express the sense of volume and texture. When engrave short lines or dots, sculpt the burin backwards so that you can see where you already engraved. I became highly interested when I was able to engrave, and I would forgot the time while practicing and concentrated on the work as it was kind of pleasurable. After three months, I was able to get the lines to my desired state, and I could engrave as I wanted to, and it gradually became a picture. Three collage studies were completed in 1976.
Once you have engraved a line, it is difficult to re-engrave it. Correction is not easy, and it takes an enormous amount of time even with the skilled technique called repoussage. Therefore, while having a kind of tension that cannot be re-engraved, I focus my eyes on the blade of burin, engrave lines slowly and accurately, like draw a picture, and I feel the infinite charm of engraving on a copper plate.
When the engraving is completed, the copper plate is scraped off with a metal file at an angle of about 40 degrees four sides, and then smoothed with a scraper and a burnisher to protect the printing paper from pressure when printing. This is called facette in French, and it is called a plate mark in English because it is a mark left only on the intaglio work types. On both sides of the line of copper plate engraved with a hard metal, a split called a bar remains and is carefully removed with a well-sharpened scraper to prepare for fine printing. The part which wants to be printed darkly is left consciously, and a blurry printing effect is produced. This bar remains firmly after printing with more than a hundred sheets of printing pressure. Therefore, it is also possible to adjust the shade of the line to be printed depending on how the bar is removed. You can also apply a force from above by applying the vanisher to the line to weaken the line and make it brighter.
Now, let's briefly explain the printing process. Fill the ink into the plate with a roller and pack it into a line. Wipe the flat part of the plate with muslins and apply it to the printing paper that has been moistened with water to give it elasticity. Then lower the blankets on the paper, and turn the handle of the etching press and print. When you slowly remove the printed paper from the plate, the engraved jet-black wet ink stands out on the paper as a clear line, and the joy and sense of fulfillment when you complete it right fills your heart with excitement and happiness like no other feeling.
In the 1980s, I purchased lozenge-shaped Swiss made burins with a long wooden handle at Bumpodo, and removable and easy to sharpening the blade. While practicing to engrave parallel lines with a narrow interval, it became possible to engrave 10 lines in 1 millimeter with the naked eye. It's surprising because you can print hundreds of lines of the same quality with the most precise and delicate expression possible with human hands.
As expected, it is a traditional technique that has been cultivated in Europe for more than 580 years, and it is a delicate expression that does not exist in the East where intaglio printing did not occur. I was thankful that I met and learned this elegant Western method in my age early twenties. When I was devoted to engraving the lines and looked at the copper plate, there was often an elegant expression that I couldn't believe I had engraved, and I was often surprised by the work myself. I was attracted to the deep world of engraving, supported buy the traditional beauty to this method.
One evening in the autumn 76’
During this time there was an unforgettable episode between Komai and me; so, let's unveil an event in the early autumn night that happened in 1976. An annual art festival was being held, and I worked at a sports club mock shop built in the campus. It was around nine o'clock at night when the number of customers decreased, a friend told me, “Kubo, you have a guest.” When I went to the entrance, a tall man wearing soft hat stood up, and when he took off his hat, it was Professor Komai and he said “Hallo!” I guided Komai down to a seat, and said to him, “Welcome to our shop.” I made an arrangement and sat beside Komai and the female students who participated in the second party, and served Komai sake and we drank a lot. Everyone talked freely with the professor they admired and this brought about great happiness. The lively banquet continued almost three hours, I was worried about time and looked at my watch, and it was almost twelve o'clock. I took Komai, who was a little drunk to the main gate and picked up a taxi on Route 8 and told the taxi driver "To Sakurashinmachi!" The taxi run onward for 10 minutes, when we came to the fork which ran enough on the narrow back road. Komai told me that "The road in front of my house is too narrow for the taxi or cars, so I'll pay for your taxi ride, and you can go back to Kaminoge by this car,” and so I came back to the campus as Komai had said. It was already late for the last train, so I decided to sleep side with chaise lounges and stay alone overnight.
In the early morning, I suddenly woke up when I heard a loud yell from the laboratory on the second floor. They said, “Who took Komai-sensei home last night?” I said, “I took him home.” They said, “You idiot, you must take him to his wife!” I didn't understand immediately what that happened, but I finally got an explanation from Tatsumasa Watanabe, who was the semi-assistant at that time, and got to know the whole stories of Komai's actions that night. Komai got off the taxi carrying me, and walked through the narrow road in front of his house, covered deeply with a soft hat, and went to Route 246 ahead, picked up a taxi again, and went around to the towns of Shibuya at midnight. Komai didn't say that he would go to Shibuya, so I felt a bit betrayal, but Komai wasn't jealous of my age like a son, I didn‘t take Komai to his wife, it was all my fault. I should have stayed with him, to make sure he went home to his wife! Anyway Komai was free at Shibuya in the middle of the night, and probably went and visited a couple of familiar shops, but the sake that he drank at the mock shop worked slowly like a body blow, made him even more drunk, and before dawn, he had be picked up by the Shibuya police. Komai was not satisfied until he was completely euphoric of course, but he was safe without encountering a traffic accident, and that was fortunate and he returned home the next day. I secretly stroked my chest in relief, in the shade behind the mock shop tent.
Drinking habits
Taking this event as an example, I would like to consider Komai's drinking habits. It is clear that Komai was always drunk because of the assault he received in the army when he was 25 years old. He lost his teeth and suffered physical pain, but at the same time he felt mental loss and frustration, and drinking alcohol gave rise to wartime militarism and rebellion against society, which gradually grew within Komai himself. I had not come across Komai when he was completely euphoric or highly intoxicated, but according to other persons who was present, when he was euphoric to a certain extent, he suddenly went mad and yelled negative words and did rebellious acts; it was the manifestation of these actions that were driven by his anger and frustration about what had happened to him in his life. Let’s cite writing of Komai’s best friend, French literary, and art critic Norio Awazu. 〈 My first visit to Komai family, and this memory is still deeply remembered. We started drinking sake, and talked about its while drinking, but all the impressions and criticisms that he uttered were interesting like this person, but despite being seven years old, his politeness to me was exceptionally polite. It was quite and I was a little confused, but after about an honor, the situation suddenly changed. Komai said to me “ Awazu san”, and changed “Hey Awazu”, “ What do you want?”, “I knew you couldn’t understand Baudelaire” and “I could understand”, and “ I knew you couldn’t understand”, the curse continued to endure him.〉Completely euphoric Komai revived the harsh experience of the military training, saw the instructor’s persistent nightmares, and was struggling desperately to be beaten. Almost every night for thirty years after the war. This mental daemon within him would never leave him alone.
When Komai started to drink, he almost ate nothing. He was tall, about 178 cm, and the energy to supply his tall body was quite a bit. When he would drink liquor without having to bite, and he was able to drink more liquor than we could imagine. The youth that was Tetsuro Komai, who was baptized by militarism during the most daring period of his life and was tossed by the great storm of war, was just as miserable as a young man or even as an artist. Only those who went to the battlefield and fought with enemy soldiers are not true soldiers. Komai was a victim of war like my farther in the sense that he did not go to the battlefield, but suffered severe physical and mental damage as a result of military training.
I remembered that Komai sometimes wore a French dark blue beret when he went out. There was a time when I was given a cover at the entrance of his house, but while drinking , but unfortunately I forgot to ask the reason. Komai would have been proud to state that he was a residence against militarism.
Let's move the story cite the writing from Kaminoge to the nearby Sakurashinmachi, and then look at Komai’s work and later productions. Every Christmas, Komai and Yoshiko invited all of the students of the copper plate department to host a party. The large table on the first floor now has colorful and delicious home-cooked dishes, and the students have forgotten their time to drink and eat. I met Komai who came to the entrance in the middle of the party and Komai invited me and kept me secret in the atelier on the second floor. There is an etching press with a long handle in one corner of the room, and tools such as burin, needle, scraper, burnisher and tabletop loupe are placed on the large two-sleeve drawing desk near the entrance door. There were several copper plates on the side that were slightly different in size. A copper plate had already been drawn, and the bare copper line was shined against the blacken ground, and quietly waiting for it to corrode. A small mirror stood at the back of the desk, and the traces drawn on the copper plate remained while copying drawings to it, and the tension at the time of production was transmitted. Around the etching press, trial proofs made during the production were placed randomly, and there was also a colour print, and I felt the vastness of the production world. Like Isaac, a boy of Sweden’s film director Bergman’s black-and-white film “Wild-Berry,” I was struck with everything in it, burned into my heart, and I was fascinated.
Now, Komai devoted himself to the production of etching after returning to Japan after 1955. There are seven engraved works produced during my stay in Paris, such as “Landscape of France” and “Beside of Church.” After returning to Japan, I head from Yoshiko that Komai had toned it with a mezzotints tool that accentuates a copper plate called rocker. Komai wanted to engrave delicate lines with burin to express the texture of the stones in pale tones, but because he had no time, he would have brought it back to Japan in the middle of the production. Komai’s son, Ari visited the Notre-Dame Schaan Church in Montparnasse, Paris. I heard that Ari was impressed to think that his father had gone there and sketched it decades ago.
Then, to prove the smallness of the work, the following description of engraving production is written in Record of Self-Loss in 1956. 〈I bought many new copper plates and started working on them with new feeling, but it was continue to failures, I became entirely disgusted with engraving.
In the 1950s and 1960s, there were still many professional workshops in Paris that used intaglio printing for commercial purposes such as announcement and invitation cards, and there was a specialty store that handled plate materials. I heard directly from Komai, but when he took a plate he failed to engraved, there was a shop that changed it to a new copper plate and Komai used it frequently. Also, when you specified the place you want to redraw, the shop craftsman cut the plate once and welded a new copper plate. So Komai worked on dozens of engravings, but many of them he didn't like it and decided to try again, and as a result of changing to a new copper plate, only seven engravings remained.
Art work and hidden constitution
After that, looking back on the days of studying in Paris, Komai was overwhelmed by many authentic works of art and lost himself. He says it was too late to start engraving as a 33-year-old given such an opportunity.I started engraving when I was 24-years-old, but it was still a little late. The engraving method is recommended to train engrave from teens whose fingers are as soft as possible. The trained and flexible hands can freely control the burin as you wish. Komai was unfortunate, when World War II broke out and it was too late to go to Paris in his life.
The reason why engraving was a succession of failures disgusting and completely disliked by the performance was probably due to Komai's physical factors. I heard from Yoshiko in 2000, but Komai couldn't write calligraphy at once, but took a break, but it was still bent. Drawing of etching is not particularly troublesome, but the engraving method while holding for a few tens of seconds is cruel, but Komai's constitution did not fit at all. It is very difficult to point out the physical weaknesses of the teacher I respect, but it is an unmistakable fact that the loss of teeth has caused a decrease in concentration and sustainability for engrave lines. I have been suffering from pyorrhea for decades since I started engraving. In addition, the back teeth began to move from the sixties, and most of the back teeth dropped out naturally in the mid-sixties. This is due to smoking from a young age, and engraving sculpture may not be all the factors, but sculpture on the heel and long sculpture will have a significant impact on the teeth. Although it does not require a strong force to engrave line with an accurately polished burin, it puts a burden on the teeth and the periodontal tissue that supports them, by encouraging the printmaker to do the hard work of tightening the back teeth and engraving the copper plate to continue. It is not difficult to imagine that engraving was a stressful operation that required patience for Komai, who lost his teeth and destroyed his periodontal tissue.
The following description is included in the chapter of engraving of Komai's technique book 〈Machière Copperplate Printmaking〉written, edited and Published in 1976 while being treated in the hospital. 〈The burin technique is hardly written. That's because I don't make much of burin’s work, so I don't really know how to explain the technique. Still, when I was in Paris for about a year and a half, I went to École Nationals Superieur des Beaux-Arts burin engraving class and worked and learned a lot. I do not know if I do it. Instead, I think that it is this technique that you can actually try and repeat your mistakes and be convinced as soon as possible.〉 Although it is a method that Komai have worked so hard in Paris, he seems to have emphasized the technology with a truly honest and humble description.
The reason for abandoning engraving after returning to Japan is mainly due to the painful production experience of the Paris era, but it is clear that Komai entrusted young art students to produce engravings, even after such a bitter past experience. I am lucky that I was one of them. Komai further states that: 〈So I still cannot say anything special about the technique of engraving, and I don't know what is practical. Even so, I recommend to those who are studying etching at this time that they try burin even once. This is because of the reason I wrote earlier, but recently I became able to get a relatively good quality burins, and I started to think that this technique would never reach the level of proficiency unless the creator was very young.〉 What should be noted here is that Komai recommends that students who are studying intaglio technique (etching) try burin (engraving) even once. What does it mean specifically? Corrosion of copper with acid, so to speak, it is difficult to understand the copperplate engraving only by someone else's etching, he says that you can understand the nature of the metal. And this is the same as Hasegawa said that the beginning of the intaglio technique is engraving, so start first. Hasegawa said that when you were young, it wasn't too late to start etching after processing and touching copper by hand and understanding the hardness and extensibility of copper.
This is an interesting story about engravings told directly from Yoshiko, in 1961, it is about the biggest counterfeit case ever occurred in Japan. The Ministry of Finance also found surprisingly sophisticated counterfeit bank notes from the disposal notes of the Bank of Japan Akita Branch, and 343 bank notes were found all over the country. The portrait of Prince Shotoku was almost the same, with a slightly different paper quality than the bank note. The Metropolitan Police Department's Investigation Division conducted a sweeping investigation into the issue. The Ministry of Finance suspected that there are only a few people who had such elaborate platemaking technology, and they suspected Komai, the leading copperplate printmaker, and sent a detective to his house at Sakurashinmachi. Komai who was suspicious and said to the detective at the entrance, “It would be much more profitable to print my own copperplate than to print a thousand yen note”. After that, the Ministry of Finance issued a new bank note of Hirofumi Ito and tried to solve the case, but the culprit could not be identified and the case was unresolved. Even today, the Ministry of Finance's Mint makes engravings and makes the original bank note portraits, and many senior craftsmen train daily. Craftsmen engrave portrait and landscapes designated by the Ministry of Finance and produce them using traditional drawing methods, but they require the accuracy of artisan skills. On the other hand, the artist engraver like me attaches great importance to the free sensibility of what he draws. Even if they say the same engraver, the content and values are completely different. The criminals who came to the Komai house should not understand the differences, but why did the Metropolitan Police Department not investigate those who experienced portrait.
Etching, various techniques
Komai has been working on etching techniques since the mid-1950s, but there are many techniques such as etching, soft ground etching, aquatint, sugar aquatint and Komai can accurately present them all with his skill to express them. Komai was studying unknown techniques by reading the text〈Art of Etching, by the British printmaker, E.S. Lumsden. Komai’s book 〈Machière of Copperplate Printmaking〉was published in his later years, and was influenced by the overall composition and illustration developed in E.S. Lumsden’s text. For some reason, this book was stored in a bookshelf attached to the front of the entrance. When I visited Komai’s house in 2000, Yoshiko handed it to me. Was it placed at the entrance because Komai took it when he went out?
Komai also clarified the process by asking every time he went to Paris, the process he did not know with Hasegawa's work. After returning to Japan, Komai experimented with expressions such as the lace pattern of “Portrait of Mrs. R” background, and made the soft ground etching technique his own.
Now, let's take a closer look at the core of Komai Art while clarifying the production process using two works as an example. The “Vision Fugitive” produced in 1951, was the first Japanese award winning International Exhibition at the São, Paulo Biennale. It is a masterpiece with depth and breadth that allows you to hear the melody of the piano from the darkness. It is a title taken from the music of a Ukrainian composer of the 20th century Sergei Prokofiev. The technique is aquatint using sandpaper, not aquatint using pine resin. This technique is inspired by the English print artist, E. S. Lumsden's technique book, 〈The Art of Etching.〉 Now, let us look at the production process and explained it in detail. First, a ground is drawn on a copper plate, and in order to make the drawing easier to see, the ground is smoked black with candle called a taper. Next, cut out sandpaper of different roughness and shapes place it one the plate. Place it on the plate and let the sand of the sandpaper stick into the copper plate with light pressure using an etching press. Remove the sandpaper from the plate, and rub the stabbed sand with your fingers while removing water from the plate surface. If there is a part that you want to add by looking at the plate, draw points with the needle and put the whole structure together. When the plate is immersed in dilute nitric acid solution, a hole is made in the ground and the point corrodes strongly depending on the size. Corrosion is advanced while removing the bubble generating both sides of the line with feather of bird.
Flush the plate with water to check the condition of corrosion. Etching production is completed by stacking many processes, but one process is missing or even the surface of a picture cannot be made unless it is done accurately. You have to make your own judgment in every process. Drawing and painting can always be erased and redrawn at any time, but it is difficult to modify the print production, and the result will not appear unless the post-printing is done, like blind processes. Therefore, a rich production experience is required above all. Look at the plate with a magnifying glass and if it is sufficiently corroded, remove the ground with benzene and prepare for the next step, printing.
The essence of Komai’s art
“Hand” which was produced in 1956, is my favorite work with a mysterious charm, with slender hands floating in the darkness of jet black, and is produced using the sugar aquatint technique. First, dissolve the sugar in hot water to make a thick solution in the bottle. Apply a thin layer of sewing oil to the surface of the plate to bounce the drawing solution. Put a sugar solution on the brush and move it quickly, leaving the solution like water drops. Wipe off unnecessary parts with a cloth. A liquid gland is poured overbearing the plate surface, and let the ground dry for a while. If you immerse the plate in a vat containing lukewarm water and rub it lightly with a brush, the ground where the sugar liquid has risen peels off, and the shape drawn with the brush is exposed on the copper plate. Sprinkle fine particles of pine resin on the plate, lightly heat it with an electric heater to fix the pine resin, immerse it in dilute nitric acid solution, and corrode for a while. Next, remove the liquid gland with benzene and draw a hand with stopping varnish. Again, heat the pine resin over the entire plate to fix it, then re-corrode it for a little longer and make the plate so that the background is black.
Remove the pine resin with alcohol and stopping varnish with benzene. Warm the plate with a heater and fill with ink using a roller. Wipe the ink on the flat surface of the plate with muslin that has been rubbed by hand, apply water-soaked printing paper and blanket on the plate, and print with pressure on an etching press. In order to fix the image that Komai envisioned in the plate, he would have had to work through this process quickly and accurately. Choose a technique that suits your image from the drawers of your technique box, make the image on to the plate as soon as possible, and confine the sensitivity at that time. If you get lost or hesitate to draw, your sensitivity will be weakened. The quick fixation of this image ー《Realism First》is the essence of Komai’s Art. Even so, it's an amazing talent because it completes a work like “Hand” in a day! I don't know any other printmaker who can make the entire process as cool and accurate as Komai. Komai's production method was completely different from Hasegawa who prepared esquisse several months prior, and produced one day after another. Komai's method was an original production method that swallowed what he wanted to draw, then digested and spit out in an instant.
The second feature of Komai’s Art is the change in this production process ー《Transformation of Technique.》 Today, many printmakers use techniques such as sugar aquatint and soft ground etching, but nobody other than Komai was doing this yet in the early 1970s. We were interested in how we expressed this effect, and at that time there were some techniques that we didn't understand, Komai must have been a magician forever.
It was a production method that Komai desperately found, which lost the teeth and periodontal tissue, and the drawing ability decreased. I learned from Komai that I should start production vigorously, and continue creating a work that contained a lively sensibility that quickly established my image in the edition of any production.
Komai introduced me many work of European painters and printmakers, he stopped by Galerie Paul Prouté, established 1876, every time he visited Paris, he purchased his favorite copperplate prints. Yoshiko told me that when she accompanied with Komai on a European trip in 1970 and purchased the old master engravings and Charles Meryon’s etchings. There were hung on the front wall of the entrance of their house and produced by Meryon's “Pon Neuf.” Also, from a certain time, “Petit Pong” was hanging on the right wall, and I wanted to draw a landscape with such depth one day. Komai told me that Meryon was very good at reducing the actual landscape, capturing the image and compressing it into his production.
I brought〈Mizue〉art magazine a special article about Rodolphe Bresdin at that time, and I was attracted by the fine illustration of “The Good Samaritan.” I saw it for the first time, and I’ve been looking for many times. I became found of the stipple engraving expression and I was inspired by the subsequent engraving work. “Branch” is a masterpiece of although it is a small Plate with a beautiful contrast between strong and weak corrosion lines. Komai's technique book 〈Machière Etching and Printmaking〉introduces illustrations such as Meryon’s masterpieces, “Le Stryge,” “La aside de Notre-Dame” and “ La Galerie Notre-Dame,” beautiful black-and-white contrast. Esprit of Meryon was contained, and the artist's madness was felt behind the work. “La Morgne,” was a heterogeneous and tense image that implied death and I had never felt that before. When I was young, I never thought that my experience of working with Meryon would lead to the subsequent creation of my Notre Dame's engravings, but I was able to complete six more works, I am satisfied with.
Komai’s late works
Let's talk about Komai's later works in the mid-1970s. In 1974, when I was a 4th year undergraduate student, Komai was suddenly diagnosed with tongue cancer, and operated at the National Cancer Centre, and subsequently undergoes regular medical examinations. After leaving the hospital, he recuperated at home, and the students were invited to visit at Christmas. I saw a surgical mark on the lower jaw of his face, when I went nearby and greeted him, Komai looked a little embarrassed, but his face was also improved, and I thought he was fully recovered and he had regained his health. At that time, Komai had the desire to produce full-fledged etching, and began to produce a series of etchings that consisted only of line drawings.
All the students of the copperplate class attended the opening reception of the solo exhibition held at Jiyugaoka Gallery in November 1975. The etchings composed by line drawing such a “Reef,” “Bottle and Cups,” “Hat and Bottle” and others were exhibited. They were a group of works with a depth and expansion of a three-dimensional painting space different from previous two-dimensional graphic works. I remember that I was fascinated by the etching with cross-hatching has been beautifully applied.
Let's take a closer look at the “Hat and Bottle” that I was most impressed. The bottle on the left of the screen and the table cloth is drawn by Pablo Picasso's early etching work “The Frugal Repast.” The bottle of Bordeaux wine, which Komai loved, was printed with a quick touch line drawing, etched with intense acid, and jet black ink raised on the paper. The hat on the left of the desk has two holes that look like eyes, and I miss the appearance of Komai wearing this hat at the night of that art festival. This work and “Bottle and Cup” use a zinc plate that has try get a shorter corrosion time than a copper plate, but it was later discovered that Komai himself judged that his physical condition was not ridiculous. Is there any more hard decision for Komai as an artist? I felt from his quick drawing touch, but Komai had realized that his death was close, and tried to complete the production and his life at the same time.
I met a young man who was looking at exhibited works at the venue. K. Kawaguchi had been collecting Komai's works since the early 1960s. At that time, he was a student at Cambridge University. When I told him that I would study in London at the end of the year. He told me to stop by The University of Cambridge to pay a visit to St. John’s for dining at High table in College Hall, but it was not possible because as our schedules could not be met. Later, in 2010, we reunited at the Tetsuro Komai exhibition held at the Shiseido Gallery in Ginza, Tokyo for the first time in 40 years and deepened our friendship. He praised my engravings and introduced it to many friends. He also promoted portrait prints of the lady proprietor of Japanese traditional Hiiragiya Inn in Kyoto, and the engraving is still on sale at a gallery in Cleveland, Ohio, in the United States. Dr. Kawaguchi is one of my best sponsors and a most reliable consultant.
The incident
Komai was recuperating at home after his solo exhibition, but in 1976, of the tongue cancer was found, and he was enter the hospital again and received radiation therapy. Despite four months of hard treatment, Komai passed away on November 20th at the National Cancer Center. Tatsumasa Watanabe, who was staying in the hospital room on that day, in the afternoon, he called me and told that Komai who tried to get up that morning, was screaming out loud “I cannot walk!” I was preparing to accept Komai's death, but I was in my countryside Shikoku, and I couldn't attend the farewell ceremony and say goodbye. The day after next, I flew away from Haneda Airport to London.
Well, it's a pity to search for the causes of people's deaths, but why did Komai get tongue cancer, and why had the disease progress so rapidly in less than three years. Concentrating on Komai as a copperplate artist let’s consider it. Violence by his military instructors comes to mind when cancer cells develop in the jaw. Komai, who lost his teeth and periodontal tissue due to the beatings during his early military training, developed serious damage to his lower jaw, and it no wonder that cancer cells have developed in the weakened place with age, and the cells proliferate rapidly into the weakened tissues. The next reason to be considered as an influence is that of the corrosion work unique to copperplate printmakers. In the 1970s, Tadayoshi Nakabayashi, who was an assistant of Professor Tetsuro Komai at the Tokyo University of Arts print facility stated, 〈Komai worked for a long time in order to remove bubbles on the surface of a copper plate soaked in dilute nitric acid in a closed chamber with smoking.〉 I have seen the corrosive room of Tokyo University of the Arts, but it looked like a sunny greenhouse with glass windows facing the courtyard. In the 1960s, the effects of toxic gases generated by corrosive work on the human body were not well understood, but it was extremely dangerous to think about corrosive work in such a situation. Let's quote Professor Nakabayashi's report. 〈Today, the toxicity of nitric acid is very common, and it can be said that sleeping in a small room with a window closed in winter is in a poor state. The vapor and gas generated from the nitric acid corrosion solution are sucked from the nostril and mouth, dissolved in the mucous membrane and saliva, return to the nitric acid, and accumulate in the jaw. It is counted as an occupational therapy illness of a printing workers whose teeth are violated.〉 Komai was working corrosive materials and acids that collected in his jaw and cancer eroded his bone tissue; since he was assaulted his teeth damaged when he was young, and he worked in the confined space with corrosive materials, who can deny that it is a completely unrelated fact that the prior treatment in his life, and the field of work he was in directly contributed to his fate later in life with cancer?
I have been shown a corroded copperplate by Mrs. Komei. The etched lines, which were sunk deeply corroded as they were drawn with the needle, and the strength of the rusted lines were eroded as they were, it was a shining rosy color to the bottom of the line. Today, attention has been focused on the toxicity of the acid, and it has been changed to an industrial ferric chloride solution in which corrosion proceeds vertically, and the dilute nitric acid solution is no longer used. However, compared to dilute nitric acid solutions that corrode vertically and horizontally, ferric chloride solutions that progress only vertically and copper accumulates in the solution are far inferior in performance. Komai just threw himself out to remove the bubbles generated in the lines, and eroded his image while maintaining a balance between vertical and horizontal, without knowing that he was corroding himself and a part of his body. It is sad that such corrosion techniques take the life of someone like Komai, it is impossible forever to disassociate the two things.
A romance
Now, when closing Tetsuro Komai's 56-year life, an acquaintance who was close to Komai wants to touch things that may not be permitted, but there is a fact that cannot be omitted. It is a romance story with a lady that began in the 1940s. A lady who is said to have been a model of “Portrait of Lady R” and many acquaintances did not explore personal relationships with Komai. I had a special encounter by chance, so let's challenge the taboo.
From the beginning of the 1960s and up to ten years, I lived in the studio at the American house, which was located on the hill from the north exit of Chuo Line Kunitachi Station, with seniors in high school, Hiroaki Ogura and my closest friend Ichiro Tsukioka. Tsukioka’s friend Kei Uenoyama who was a student of painting the facility at Tokyo Zokei Art University, Kei lived in the neighboring town. We became friendly because we came from the same Kansai area. One day, Kei came on a BMW R26 single cylinder engine, shaft drive motorcycle and asked me, "What sort of person is your teacher Komai at your university, he is rumored to be known by my aunt?" I said, “Professor Komai is my copperplate teacher, but I will ask him.” According to Kei Uenoyama, the aunt was the third sister of the nine paternal sisters, Yasuko, she was the most beautiful among the sisters. In the summer vacation of 1974, I went and visited Ashiya City and I met Kei Uenoyama and his parents and stayed for a night. Kei’s farther told me about his elder sister, Yasuko who graduated from the Women's Art University in Tokyo, and she was married to an architect, Shigeo Hirata, but I heard from Kei’s farther that the rumours with Komai after that were very annoying. In 1943 Komai began his career at Matsuda Hirata Architectural Design Office in Shibuya, where he studied architectural design. In 1945, after the end of the war, Komai started working at the office again and met Yasuko Hirata. Both of them were graduates of art university, talking about art and exchanging letters about print production that Komai was working on at that time, the rumours spread out from there.
I was concerned about the rumours for a while, and in 1975, after school in the copperplate class, I tried to ask Komai about the lady. “Did you know Yasuko Hirata?” He said, “Yes I know her, and I went to visit that lady at the hospital last week too.” It was a simple answer and my feelings became easier. According to a story I heard from Kei Uenoyama later, Yasuko had been hospitalized for a long time after getting married due to spinal cord issues. It can be imagined that Komai regularly visited Yasuko during that period. In 2012, I had the opportunity to attend an exhibition with Mrs. Komai at Kanagawa Modern Museum of Kamakura, and I asked about Mrs. Hirata, Yoshiko said to me “I have heard from Komai about the lady, Komai longed for her before we got married.”
Yasuko would have continued to encourage Komai in the devastated and dark times just after the war, when Komai began to produce “Vision Fugitive,” in 1951. Artists have to work alone, but if there is someone who watch the production from the outside world and express their opinions or give advice, the artist sometimes works beyond his ability. Yasuko’s “Love” for the Komai as an artist inspired Komai, and as a history of art that Japanese won for the first time at an international exhibition. Compared to the achievement they have achieved, people's rumours are insignificant and empty with no real reality.
When I first saw “Vision Fugitive,” I was surprised, and had to ask myself if I would have been able to produce such a work right after the war. It seemed that a sophisticated European first-class work with a three-dimensional suddenly appeared in a devastated society. “Vision Fugitive” was such an outstanding work, and it was possible for him to do it. Both Hirata and Komai died a long time ago, but what Komai glimpsed in the darkness of jet black was a phantom illusion projected on the slight light extended by Yasuko within her heart and mind. This allowed him to pour his heart and soul into a beautiful expression of this master work.
Achievements and legacy
Let’s conclude this discussion with a final statement on the work Komai has left us. For me, Tetsuro Komai was the Professor in charge, but mentally I wanted to be more a person and an artist than a teacher. I was interested in Komai’s work and his approach, broadly speaking, his way of life, and I was greatly influenced by the work that was being produced at the time. I saw the etching drawn by the quick touch of “Black Horse in the Darkness,” written by Yutaka Haniya at the Masuda bookstore near Kunitachi Station where I lived. For me, who was concerned about the relationship between literature and painting, Komai's approach to copperplate production was a boldness that wasn't afraid of anything, the cleanliness of throwing himself into an unknown field, and most of all, there was a sincereness of the production and respect for the author. The impact that I received from Komai when I was young gradually penetrated into my body, and became the foundation for my copperplate production and I benefited from its strong energy for a long time.
The fact that I met Komai in the early 1970s and was encouraged to engrave was to decide my artist life. I chose an engraving method that takes enormous time to produce, and I have been producing works for the past 45 years. Retrospecting the four years I had been shared time with Komai, I can say that we received the world's finest art education. Later, I learned from visiting art universities on overseas, but I found that we received an excellent print education with fine philosophy and facility as anywhere in the world. There was an art history of creative print movement that originated in the 1990s, printmakers draw their own pictures and make the own plate and printed them themselves. Under such circumstances, a new post-war art education began, which was to create original prints and spread print unlike ordinary commercial printing. Intaglio prints had a clear purpose for the general public to recognize that there was matière on paper an in oil painting, Komai was a pioneer of copperplate printmakers who had made a production record by advocating it. We have worked with Komai, the ideal of saying “Let's do a good job.”
Komai brought the Western artistic philosophy to Japan for the first time, and his philosophy never shattered in any circumstances. If you look at the original prints directly, you can feel the ink rising on the paper and appreciate the copperplate prints. As you stare the print, you can see that thick line that looks dark has a large amount of ink, the thin line that looks bright has small amount of ink, and human eye can distinguish the difference in the amount.
The best way to disseminate the original prints is to look at the works, but unfortunately there are still no public facilities in Japan where you can see your desired works at museums and libraries at any time. I just hope to have a new print studying room where you can appreciate the original prints without frame.
This year 2020 is the 100th anniversary of Komai’s birth, let’s examine the current situation once again, the philosophy that Komai tried to achieve and spread has not had retreated or gone out from the present. While being tossed by the great flow of the era of war, Komai rushed through his life in 56 years, the achievements given to the next printmakers generation, and the art of life as a result of the essence of art -《Realism First》,《Transforming of Technique》are how and where it currently exist. If we are taken on an exploration trip, we may be also reach new discovery that has not been seen yet.